印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


祝福しながら彼らを離れ、
天に上げられた―
主の昇天C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ルカによる福音24章46−53節

1.祝福しながら彼ら(弟子たち)を離れ、天に上げられた
 主の昇天の場面は次の二つの時点で読みます。
(A)その出来事が実際に起きたイエスのときに返って読む。
 今日の福音の前半(46−49節)では、昇天に先立つイエスの最後の言葉が述べられ、後半(50−53節)では、天に上るイエスとそれを見て喜ぶ弟子たちの様子が描かれています。
(B)福音記者がある共同体に宛てて編集しているので、その状況、その時点に入って読む。
 今日の福音書が編集された時点、すなわち紀元70−80年代のルカ共同体の現実と体験を前提にして読みます。この時点では、イエスはすでに十字架、復活、昇天し、ルカ共同体に聖霊が授与されています。
 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(第一朗読:使徒言行録1章11節)。ルカがこの箇所を予告約束の形で書いたのは、紀元70−80年代のルカ共同体の現実と体験を前提として、純粋に歴史的にはおよそ40年も昔のイエスの昇天の場面を描いているのだと認識すればよいのです。
 そこでルカは、天に上げられたイエスを語ることによって、何を言おうとしているのでしょうか。数多くの解釈が浮かんできます。ごく初歩的なレベルでは、昇天は、弟子たちへの復活したイエスの顕現の時期が終わったということを意味しています。〔語句の意味〕顕現(けんげん)……神が人間の目に見えるかたちで現れること。弟子たちは、これから後、彼が戻って来ること(=来臨)を待ちつつ、先のことに備える態勢でいます(前述した使徒言行録1章11節)。しかしその間も、彼らは約束の力を待っています(今日の福音:ルカ24章49節)。イエスの昇天とその来臨の間にある「教会の時」とは、信仰者たちが、自らを支えるよう努めながら、イエスの約束と祝福とを交互に思い出すということではありません。弟子たちは、イエスが天に上げられ、去ったことにより、がっかりしたりふさぎ込んだりすることはありませんでした。高い所からの力を待ち、礼拝するためにエルサレムへ、そして神殿へと帰りました。大喜びで、神をほめたたえながら(ルカ24章52−53節)。

2.イエスの血によって
 イスラエルには、年に三回の巡礼の祭り−過越祭(すぎこしさい)、五旬祭(ごじゅんさい)、仮庵祭(かりいおさい)−のほかに、秋(仮庵祭の5日前)には、「大贖罪の日(だいしょくざいのひ)」がありました。大祭司は自分と民の罪の償い(つぐない)として、雄牛(おうし)をほふります。「第二の幕屋(至聖所)には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のためにささげる血を、必ず携えて行きます」(ヘブライ人への手紙9章7節)。そしてそれから雄山羊(おやぎ)を連れて来て、国民のもろもろの罪をその山羊(やぎ)の上に負わせます。それから山羊のお尻をポンと叩いてそれを荒野に追い払います。それによって、山羊に罪の汚れを全部押しかぶせてしまうのです。「雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(レビ記16章22節)。だから「スケープゴート」(いけにえのやぎ)という言葉があるわけです。ほかの人の身代わりに罪や責任を山羊にかぶせてしまう。こうしたことを指すこの言葉は、この祭りから来ているのです。
 このように旧約の人々は、自分であれ他人であれ、罪を赦すことは人間には不可能だと認め、動物の血による贖い(あがない)に期待を寄せました。しかし、何度も繰り返さねばならないことに端的に示されているように、動物の血は人間の罪をすっかり消し去ることはできず、不完全なものにすぎません。
 これに対して、イエスの血は「ただ一度」(第二朗読:ヘブライ人への手紙9章26−27節)ですべての罪を消してしまう完璧な贖いになりました。なぜなら「約束してくださったのは真実な方」(第二朗読:ヘブライ人への手紙10章23節)であり、このようなイエスが昇天し、父の右におられるのですから、私たちは罪の重荷からすでに解放されているのです。

 今日の福音のまとめ
 (第一朗読の「主の昇天」の場面と同じ)白い服を着た二人の人が「復活」の場面で婦人たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24章5−6節)と告げます。ルカは、復活は「(イエスは)生きておられる」と述べています。「生きておられる」ということは、死ぬ、生きる、を越えて非常に強い現存がそこにあります。この現存は↑(父のもとへ)、↓(私たちのもとへ)、という方向性を生み出しました。それが、高挙(天に上げられた)と再臨(天に上げられたキリストがおりてくる)という信仰の形になっていきます。上げられたのならば、すぐに主(しゅ)がこられる。初代教会の人々はすぐにキリストが再臨するものだと思っていました。
 だから昇天は単純にイエスと弟子との別れとなった出来事なのではありません。イエスの再臨(=救いの完成)の対極となる出来事であり、昇天と再臨との間の時代、つまり「教会の時代」を準備する出来事なのです。なぜなら、死者のうちから復活し、天に上げられた(=高挙)イエスは今も聖霊を通して教会を導き、救いの業を行っているからです。
 天に上げられていくイエスは、弟子たちが聖霊の力を受けて、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と宣言します(第一朗読:使徒言行録1章8節)。キリスト者は、イエスの血によって罪の重荷からすでに解放されているのだから何もしなくてもよいのではなく、イエスの再臨を信じて、与えられた使命を遂行するために働かなければならないのです。
2022年5月29日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。