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今日の聖書朗読における聖霊
−聖霊降臨の主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  使徒言行録2章1―11節、
  ローマ書8章8−17節、
  ヨハネ14章15−16節・23b−26節


 第一朗読:
  違っていて、一つ
  (使徒言行録2章1−11節)

 旧約聖書の中で「霊」という言葉はヘブライ語の「ルアハ」を訳したもので、もともと「息」とか「風」を意味していました。神が人を創造したとき、「その鼻に命の息を吹き入れ」て「人は生きる者となった」(創世記2章7節)とか、「風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(3章8節)とあるように、人を生きる者にする力とか神顕現を表すシンボルでした。「風」は激しくなると「嵐」になりますが、ノアの箱舟の物語では、罪に満ちた世界を滅ぼし、新たな世界を始めるための原動力となります(創世記6章1節−8章22節)。このように、世界や人を創造し、罪深い世界を滅ぼし、新たな世界を始める力が「神の霊」として理解され、また、神そのものの存在を感じさせるのが「ルアハ」でした。
 五旬祭は巡礼祭のひとつですから、あらゆる国々に出ていたユダヤ人がエルサレムへと戻ってきます。弟子たちは一つの家に集まっていましたが、「激しい風が吹いて来るような音」が家中に響き、「炎のような舌」が現れ、一人一人の上にとどまると、彼らは聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉を語り始めます。「風」「炎」「現れ」は旧約聖書では具象的な神顕現を示します(出エジプト19章16節)。風(プノエー)はその同義語の「霊」の降臨を思い出させ、「舌」(グローッサイ)は「言葉」と同意語です。
 ヘブライ語の「ルアハ」は自然や人間を造りかえる息であり、人間にさまざまな能力を与える力であり、神がその計画を実現するための手段でした。ですから、五旬祭における聖霊の降臨は、救いの出来事(イエスの十字架上の贖い〔あがない〕の業)にあずかり、その救いの出来事を宣べ伝える新しい民の誕生を示す出来事なのです。この民は「神の偉大な業を語る」(11節)ことを使命とする「証言共同体」ですが、彼らを一つの共同体にまとめ上げているのはこの「聖霊」にほかなりません。しかし、一つの大きな舌が彼らをくるんだのではなく、分かれ分かれに現れた舌が一人一人の上にとどまったのですから、それぞれ違った働きを行い、違った言葉を語ります。それでも一つの共同体なのは、同じ舌、同じ霊、同じ神を受けているからです。

 第二朗読:
  死ぬはずの体をも生かしてくださる
  (ローマ書8章8−17節)

 「キリストの霊」とは「神の霊」と別の霊ではなく、キリストという具体的な人物に現された神の霊を指します。キリストに属している者とは「キリストの霊を持つ者」、「神の霊があなたがたの内に宿る者」、「キリストがあなたがたの内におられる者」のことです。「キリストがあなたがたの内におられる」ならば、キリストの「霊」は神の義(神の正しさ)ゆえに、あなたがたに命を与えます。聖書がいう命とは、今生きているこの世の命だけでなく、死んでから神のもとへいく命をも含みます。命が与えられるとは、キリスト者は洗礼を受けることによって聖霊が与えられ、神(父と子と聖霊)との交わりに入ることを指します。神の義とは、死者の中からキリストを復活させ、その贖いの業によって、罪を犯して死ぬはずの私たちが赦され、命を与える(神との交わりに入る)という神の計画です(11節)。
 「肉に従って生きる」(12節)とは、神に身を開いてその力を受けようとはせずに、自分自身の人間的な力に頼る生き方です。「肉に従って生きる」ことは、聖書的には神から離れ罪を犯して死ぬはずの生き方であり(13節)、そのような生き方は人間の力では絶つことができません。だから、神は人間に「霊」を与えて、人間が「神の子」と呼ばれることを許しました(14節)。神への祈りは、イエスが教えたように、神を父と呼ぶことから始まりますが、「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのは、「霊」によるものなのです(15節)。

 福音:
  聖霊=「弁護者」・「真理の霊」
  (ヨハネ14章15−16節・23b−26節)

 聖霊は「弁護者(パラクレートス)」あるいは「真理の霊」と呼ばれています。「父は『別の弁護者』を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と表現されています(14章16節)。「弁護者」はもともと「助けるために側(そば)に呼び寄せられた者」という意味を持つ語です。「別の弁護者を遣わす」と言うからには、もうひとり別に「弁護者」がいるはずです。ヨハネは書簡の中で、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と書いていますから(汽茱魯予2章1節)、もうひとりの「弁護者」とは、父のもとに戻ったイエス自身のことです。イエスは罪を犯した人間の「弁護者」となって、父に執り成すために天に上り、「別の弁護者」が天から遣わされてきます。この「弁護者」は「イエスの名によって遣わされる聖霊」です(26節)。
 「弁護者」である聖霊は、「すべてのことを教え、イエスが話したことをことごとく思い起こさせてくださいます」(26節)。イエスの言葉と行いは思い出の中だけで語られるのではなく、今も絶えず信じる者が生きる現実の中で証しされるべきものです。
 イエスは「聖霊はあなたがた(=使徒たち)を導いて真理をことごとく悟らせる」と言いますが(13節)、これは聖霊が新しい真理を啓示するという意味ではなく、「弁護者」そのものであるイエスの言葉の中に含まれている真理のすべての面を悟らせるということです。
 「これから起こることをあなたがたに告げる」(13節)も使徒たちを預言者とするという意味ではありません。この箇所で使用されている「告げる」という動詞(アナンゲッロー)は、ダニエル書2章2節などでは、将来起こる出来事の中にある不思議な計画を明らかにする、神のひそかな意図を明らかにするという意味です。

 今日の聖書朗読のまとめ
 聖霊をきちんと理解することは、キリスト教的な生活が何であるか、キリスト者とは何者かを理解するうえでも大切なことなので、今日の聖書朗読を黙想してみましょう。
2022年6月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教