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真理の霊は
自分から語るのではなく、
聞いたことを語る
―三位一体の主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  知恵は神の創造の業に参加した
  (箴言8章22−31節)

 「箴言(しんげん)」は、「ヨブ記」、「シラ書」や「知恵の書」と並んで、知恵文学に分類されています。「責任ある市民としての正しい行動」を指して「知恵」と呼んでいます。第一朗読の「わたし」は擬人化された知恵のことです。
 第一朗読では、「その道の初めに」「いにしえの御業になお、先立って」(22節)とあるように、知恵は天地創造より前にすでに存在していたことが述べられています。神が天地を創造するときにはすでに知恵は存在していましたが、それは神の創造の業に「巧みな者(たくみなもの)」(30節)として参加するためです。
 「巧みな者」と訳された語は、母音を変えれば、「棟梁(とうりょう)」の意味にも「乳児」の意味にもとることができます。知恵は天地創造の際に、神の相談相手のような役割をしていたのか、あるいは神が創造した世界を遊び場のように喜び楽しんだ存在なのか、どちらのイメージも可能です。いずれにしても、天地創造に果たした知恵の役割を強調しています。

 答唱詩編:
  人を超えた神の現存と働き
  (詩編8・4+5、6+7)

 旧約聖書では、神が人々を導くと言われています。詩編作者は神に向かって「あなたの天を、あなたの指の業を、あなたが配置している月と星を私が見るとき」(4節直訳)と祈ります。「あなたの天」を「あなたの指の業」と言い換えることによって「あなたの指」の働きが造り出した「業」への気づきが明らかにされます。
 「天」は「あなたの指の業」ですが、「あなた」の働きは創造という過去で終わったのではありません。動詞「あなたが配置している」が示しているように、今も働く「あなた」の活動によって、「月と星」が一定の軌道に従って天を歩んでゆきます。詩編作者が夜空に「見た」のは、月や星という天の物体ではありません。その物体に常に付き添う「あなた」なのです。
 夜空に「あなた」の姿を見たとき、詩編作者の視線は夜空の下に立つ「人」としての自分に向かいます。広大な天に比べれば、「人」は卑小(ひしょう)にすぎません(5節)。しかし、このちっぽけな存在は「あなた」が「神の使いに近い者(直訳 神にわずかに劣る者)」として造り、「栄えと誉れの冠」を授けた存在なのです(6節)。

 第二朗読:
  聖霊が神の愛を思い起こさせる
  (ローマの信徒への手紙5章1−5節)

 パウロは「信仰によって義とされる」と説きます。「信仰」とは人が努力して到達したり、人から賞賛を受ける「信心深さ」のことではありません。もしそうであれば、信仰は人間の力によって獲得できるものとなってしまいます。「信仰」とは、ただ神の愛として人間に差し出した救いを受け入れることです。「義とする」のは神だからです。
 イエスを死者の中から復活させた方(神)を信じることによって(ローマ書4章24節)、私たちは「義とされ、神との間に平和を得、神の栄光にあずかる希望を誇りに」することができます。神の栄光にあずかることが約束されているなら、「苦難をも誇りとする」ことができます。苦難の中で希望を持つという逆説を生きることができるように、神は聖霊を遣わします。聖霊がイエスに示された神の愛を私たちの心に思い起こさせるとき、私たちは「苦難」の中で「忍耐」し、「練達」へと向かい、「希望」をもって生きる者とされてゆきます。

 福音:
  真理の霊は自分から語るのではなく、
  聞いたことを語る
  (ヨハネ16章12−15節)

 聖霊の働きは「自分から」起こる働きではありません。13節で述べられているように、聖霊は「自分から」話すのではなく、聞いたことを話します。さらに14−15節では、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と繰り返すことによって、聖霊が行う告知はイエスから「聞いたり」「受けたりした」ことだと強調されます。しかもイエスはすべてを父と共有しています「父が持っておられるものはすべて、私のものである」(15節)。
 だから、父と子と聖霊はそれぞれ別のことを話すのではなく、互い の深い交わりの中からただ一つのこと、「真理」を人間に話します。

 今日の聖書朗読のまとめ
 三位一体の教義は、新約聖書では「派遣」、人間の救いのために父(神)が子(イエス・キリスト)を派遣し、また父と子が聖霊を派遣するというテーマを通して啓示されています。
 神が人間の救いを思い立ったとき、神は人間の歴史、現実の生活に介入しなければなりません。人間は、歴史的な存在であり、その歴史の中でさまざまな現実を背負い、その歴史的な現実の生活の中で救いを希求しているからです。しかし、神は人間とは根本的に隔たった超越的な存在であるがゆえに、神みずからが歴史的な存在となって人間の現実の生活の中に登場することができません。そうなると、神に代わって、しかも神と同一である方がこの歴史に派遣されることになります。派遣されたのが子であるイエス・キリストです。
 神がイエス・キリストを派遣し、その救いの思いを伝えたとき、人間は罪深さと弱さゆえに、この救いの思いを完全に受け取り、神の救いにあずかることは不可能です。人間が救いにあずかるためには、人間を神へと向かわせる力、聖霊が与えられなければなりません。
 このように、神の救いの思いが人間に伝えられ、人間がその救いにあずかるという、神の人間に対する救いの構造を考えたとき、父である神も、子であるイエスも、聖霊も、同じ神でなければならないということなのです。つまり、神の救いは父なる神からイエス・キリストを通して聖霊において人間に与えられ救いを希求する祈りは人間から聖霊においてイエス・キリストを通して父なる神に至る、という一つの流れとなります。このように、三位一体の教義を神の人間に対する救いの構造から考えてみましょう。
2022年6月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文序盤で「下線+斜字(イタリック)」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+斜字(イタリック)で代用させていただきました。ご容赦を。
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