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あなたがたが彼らに
食べ物を与えなさい。
イエスは
祝福した五つのパンと二匹の魚を
弟子たちに渡しては
群衆に配らせた
―キリストの聖体C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  「祝福する」「たたえる」
  (創世記14章18−20節)

 メルキゼデクはアブラムのもとに来て、次のように語ります。「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように」(19−20節)。
 「祝福する」「たたえる」と訳された言葉は、原語では同じ動詞バ−ラフです。この語は「力を付与する」を意味します。神からアブラムに祝福の力が下り、アブラムから神に賛美という賞賛の力が上ります。礼拝とは願望を実現する手段ではなく、神と人間との間をこのような力が行き交う(いきかう)ことです。祭司の役割は、神から下る祝福の力を祈り求めることにあります。まことの大祭司イエスもパンと魚を祝福します(ルカ9章16節)。

 福音:
  イエスは神の国について語った
  (ルカ9章11節)

 ルカは奇跡の描写に入る前に、「イエスはこの人々(群衆)を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と書いています(11節)。この奇跡物語は他の福音書によっても伝えられていますが(マルコ6章30−44節、マタイ14章13−21節、ヨハネ6章1−14節)、奇跡の取り上げ方は微妙に異なっています。
 ルカはこの奇跡物語を「神の国(=神の支配)」と結びつけます。「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、「治療の必要な人々をいやす業」と同様に、イエスと共に「神の国(=神の支配)」が始まっていることを示すしるしなのです。

 福音:
  あなたがたが彼らに
  食べ物を与えなさい
  (ルカ9章12−17節)

 13節の「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という指示に含まれる「与える」という動詞と、16節でイエスが祝福した五つのパンと二匹の魚を「弟子たちに渡しては群衆に配らせた」という箇所での「渡す」は、同じ動詞「ディドーミ」です。16節の「渡す」は動作の継続・反復を示す未完了過去ですから、「渡し続ける」といったニュアンスを読み取ることが可能です。イエスは与え続ける力なのです。
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。ルカは「食べ物」の背後に神の国を見ています。将来、弟子たちが神の国の宣教の最前線に立ったとき、もし自分の力にのみ目を向けるなら、まさに「五つのパンと二匹の魚」にもたとえられる貧しい現実に絶望するに違いありません。しかし、「五つのパンと二匹の魚」をイエスの手に返し、祈りの後に与え返されるなら、すべての人が満腹し、あまりが出るほどに豊かにされます(16−17節)。ルカにとって大事なのは、パンと魚が増えたという事実ではありません。パンは確かに増えていますが、ルカにとって増えたパンは神の国のシンボルなのです。

 第二朗読:
  わたしの記念として
  このように行いなさい
  (汽灰螢鵐判11章23−26節)

 パウロは「主の晩餐(ばんさん)」(11章20節)の起源を「最後の晩餐」に求めています。主イエスはこの聖餐を「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24・25節)と命じますが、この言葉を直訳すると「これをあなたがたは行いなさい 私の想起の中へ」となります。「想起」と訳した言葉は、単なる「忘れていたことを思い出す想起」だけでなく、「思い起こして、心に留め、それに身を合わせる」ことを表す言葉です。私たちはミサ(感謝の祭儀)にあずかるとき、イエスを思い出として単に偲ぶのではなく、神への信頼を生き抜いたイエスの姿に心を留めて思い巡らし、それに身を合わせて生きることが求められています。

 今日の朗読のまとめ
 今日の福音「五千人に食べ物を与える」を真ん中にはさんで、直前に「ヘロデの誤認」が、直後に「ペトロの信仰告白」が続いています。そして「ヘロデの誤認」(9章7−9節)と「ペトロの信仰告白」(9章18−20節)が全く対比並行しています。
 ヘロデは質問します。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。一体、何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主(うわさのぬし)は」(9章9節)。イエスも弟子たちに質問します。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(9章20節)。「イエスとは何者か」という質問が今日の福音をはさんでの問題であることを忘れてはなりません。
 弟子とはヘロデのようにイエスに戸惑うのではなく、ペトロのように「神のキリスト」(新共同訳は「神からのメシア」)と告白する人のことです。この告白が可能となるのは、私たちの貧しい現実がイエスに献げると豊かに変えられることを知っているからです。神の国の宣教の最前線に立ったとき、私たちは貧しい現実に直面することがあります。そのようなとき、ミサ(感謝の祭儀)の中で聖体拝領にあずかり、イエスと結ばれ、イエスと共に貧しい現実を父なる神へ献げることによって、神の国の宣教の力を得ることができるのです。
 今日の第二朗読(汽灰螢鵐判11章24節)や福音(ルカ9章16節)でイエスはパンを裂きます。そして、今日の福音とイエスをキリストとするペトロの信仰告白の後、イエスは自分の死と復活を宣言します(9章22節)。イエスが裂いたパンはイエスの体とひとつです。
 ミサ(感謝の祭儀)を祝うとき、聖体の中には、処刑され、今は高く上げられたイエスの体が現存します。こうして、ミサ(感謝の祭儀)にあずかる者は聖体拝領の中でイエスと結ばれた者となります。主イエスの体が「あなたがたのため」(第二朗読24節)に裂かれたことによって、私たちは罪を除かれ(汽灰螢鵐判15章3節)、私たちは主イエスの血による「新しい契約」(第二朗読25節)に参与します。
 イエスの奉献(十字架上の死)は、歴史的にはたった一回限りの救いの出来事ですが、現在もミサ(感謝の祭儀)の中で行われています。私たちは奉献するイエスの姿を思い巡らし、イエスと共に身を父なる神に献げることが求められています。私たちは聖体拝領を行い、主イエスの死を告げ知らせるとき、その復活にもあずかり、主の再臨を待ち望む者になります。
2022年6月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教