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神の国を言い広めなさい
―年間第13主日C年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
アフェシスの旅
イエスのナザレの説教(ルカ4章17−18節)は、まずイザヤ書61章1節で始まります。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放(アフェシス)を、目の見えない人に視力の回復を告げ」と。次にナザレ書58章6節「圧迫されている人を自由(アフェシス)にし」を引用して、先に続きイザヤ書61章2節「主の恵みを告げるためである」に戻ります。
イエスの説教をこのような複雑な引用で編集する理由は、彼の全活動が解放(アフェシス)と自由(アフェシス)を目的とするためにほかなりません。従って彼の生涯は「恵みの年を告げるもの」、すなわちヨベルの年の(ヨベルは解放と自由を表すヘブライ語で、ヘブライ律法は、奴隷や土地を失った者などに一定期間毎に自由と、土地が戻されるように規定しています)さまざまな解放と自由を告げるものです。従ってナザレに始まるイエスの旅は、アフェシスを宣べ伝える旅です。※アフェシスは他の箇所では「赦し」と訳されています。
イエスはルカ4章43節で、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされた」と語り、これは彼の宣べ伝える神の国がアフェシスを与えることを意味しています。「神の国を言い広めなさい」(今日の福音60節)。今日の福音で弟子は、イエスの活動― 人々にアフェシスを与える ―の継続を命じられています。
ルカ福音書は今日の福音を境に大きく二つに分かれます。前半部ではガリラヤの宣教の旅を述べ、後半部はエルサレムへの最後の旅とそこでの死と復活を述べます。「天に上げられる時期が近づく」(今日の福音51節)の「天に上げられる」は、死と昇天を意味します。これから旅に出てエルサレムで死んで昇天するという神の計画が近づき、イエスはエルサレムへ向かう決心を固めます。サマリア人とユダヤ人は互いに敵であるから、たとえイエスと弟子たちが「エルサレムを目指して」いなくても、歓迎しなかったはずです。にもかかわらず「エルサレムを目指して進んでおられたからである」というのは、エルサレムを目的とすることは、人々からの拒絶―受難死を意味し、弟子たち、教会にとってもイエスの道は、人々からの拒絶の道であることを示すためです(今日の福音52−53節)。
新しいエリヤ
イエスはルカでは「新しいエリヤ」とみなされています(ルカは他の福音書が洗礼者ヨハネをエリヤと同一視している箇所を全部省略しています)。「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼす」(今日の福音54−56節)という句は、列王記下1章10節・12節・14節のエリヤが、サマリア王の部下を天から火を降らせて焼き滅ぼした伝承に由来しています。このすぐ後にエリヤの昇天(列王記下2章)が伝えられています。従って、イエスの昇天(今日の福音51節「天に上げられる」)とサマリア人の拒否に対する言葉は、イエスをエリヤと対比させています。イエスはエリヤのように、自分を歓迎しない人々に天罰を下すようなことをせず、弟子たちをたしなめて、そこから立ち去るのです。また、今日の福音の三人目の弟子志願者との問答も、エリヤがエリシャを弟子にする場面(今日の第一朗読19−21節)を背景にしています。
イエスに従う
「私に従いなさい」(今日の福音59節)という表現は、元来ラビの弟子入り用語です。しかしラビの場合、弟子はラビから律法とその解釈を習うために弟子入りします。ラビの人格を目的として弟子入りするのではなく、彼の教えをおぼえるためです。しかしイエスの弟子の場合、教えを習うことが中心ではなく、イエス自身が中心であり、彼自身が弟子の目的となります。
だから、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」という願いにも「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とイエスは答えます(今日の福音59−60節)。ここでの「死者」とは神の国に気づかない人です。イエスの弟子になるとは、イエス自身を信じ、希望し、イエスを心の中心とすることです。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(今日の福音60節)。初代教会において、イエスに従うことは、家族の絆から離れて「神の国の宣教」を意味しました。それはイエスの活動の継続です。
三番目の志願者の「身内に別れを告げる」という願いは、エリヤはそれを聞き入れました(第一朗読20節)が、イエスはその願いを「神の国にふさわしくない」(62節)と答えます。それほど神の国の宣教は急を要し、ユダヤ民族宗教の枠をこえること、民族宗教の基礎たる家族の絆に束縛されない者であるということが、この言葉の前提となっています。
今日の朗読のまとめ
イエスはナザレの説教でアフェシス(解放・赦し・自由)を告げます。彼の全活動がアフェシスを目的としていました。従ってエルサレムへ向かうイエスの旅は、アフェシスを宣べ伝える旅です。「私に従いなさい」(今日の福音59節)。初代教会において、イエスに従うことは、「神の国を言い広める」(今日の福音60節)ことを意味しました。アフェシスはイエスが宣べ伝える神の国を受け入れることで与えられました。だから弟子は、イエスの活動―人々にアフェシスを与える(=神の国を言い広める)―の継続を命じられます。
ある神父が「どうして宣教が進まないのですか」という問いに、「教会内部の問題に力を使い果たして宣教まで力が残っていない」と答えました。まさに第二朗読17節の「互いにかみ合い、共食いしている」状態です。これはただ霊によって歩むことによってのみ克服されます(第二朗読16節)。それは具体的には「隣人を自分のように愛しなさい」(第二朗読16節)を教会として自由(アフェシス)に正しく行うことです(第二朗読13節)。
2022年6月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教