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この家に平和があるように
―年間第14主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 第一朗読:慰めを受け
  (イザヤ書66章10−14節c)

 人間の心が常に満たされているなら、慰めは必要ではありません。どこかに不満が残り、それをしずめられねばならないときに、慰めが必要となります。13節で「慰める」が三度も使われるのは、イスラエルに不満があるからです。
 イザヤ書56−66章は第三イザヤと呼ばれています。第三イザヤが活動した時代は、捕囚地バビロンから帰還し、神殿も再建されたのに、約束された栄光が見えなかった時代です。ペルシャの支配は相変わらず続き、恒常的ともいえる飢餓が解消したわけでもありません。かつてエルサレムを満たしていた栄光も今は昔となり、さびれた小都市に落ちぶれています。第三イザヤは、約束された栄光がさっぱり現れそうもないことに不満をもち、自分勝手に生き始めた人々に語りかけます。
 第三イザヤは、神がエルサレムに「平和を大河のように」「国々の栄えを洪水の流れのように」(12節a)送り、諸国の輝きをエルサレムへと流れ込ませるために、エルサレムを愛する者(10節)はそれを豊かに享受(きょうじゅ)することができる、と語ります。それを語るために、神を女性にたとえていますが、これは、聖書ではここが初出のたとえです。預言者はエルサレムの回復を告げ、自己中心的な生き方からの離脱を呼びかけます。

 第二朗読:新しく創造され
  (ガラテヤ書6章14−18節)

 パウロが「割礼の有無は問題ではない」(15節)と述べるのは、異邦人がキリストによる救いにあずかるためには、まず割礼を受けてユダヤ人になる必要があると説く人々がいて、ガラテヤ教会を混乱に陥(おとしい)れていたからです。
 パウロはガラテヤ書5章6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と述べます。「新しく創造されること」(15節)は「愛を伴う実践」に対応しています。「新しい創造」とは古い人から新しい人への転換であり、キリスト者が「キリストの中で(=キリストに結ばれて)」、しかもそれにふさわしく生きる(=愛を実践する)とき、新しい創造が起こります。こうして、イスラエルは割礼を受けた者の集まりではなく、新しく創造された者の集まりに変貌(へんぼう)します。
 パウロは、「新しく創造された」という原理に従って生きる人の上に「平和と憐れみがあるように」(16節)と祈ります。

 福音:先に遣わされる
  (ルカ10章1−9節)

 「七十二人の派遣」は、三つの段落、旅路(2−4節)、家(5−7節)、町(8−9節)に分けることができます。それぞれの場において「宣教者」の姿が具体的に示されます。
 旅路(2−4節) 宣教者は何よりもまず「願う人」でなければなりません。旅を続けながら、収穫の主である神が働き手を「神の収穫」のために送ってくれるように祈ります。イエスは「行きなさい」と命じる前に「願いなさい」と教えます。宣教とは、宣教者が行うというよりも、神が宣教者を通して行う活動なのです。
 「財布も袋も履物も持って行くな」という指示も、それが神からの派遣であり、神の配慮は宣教者の必要にまで及ぶからです。彼らは道中で交わす挨拶も禁じられます。それほどに緊急を要しているからです。
 家(5−7節) 家に迎えられたときには、まずは「平和があるように」と告げねばなりません。これは日常的な挨拶ではありません。この「平和」は「満ち満ちた」状態を指します。それは神の救いの到来を示す賜物であり、神が与える贈り物です。
 町(8−9節) 5節の「家」は宣教者の馴染みのある場所を指すのに対して、8節の「町」は知り合いのいない異邦人の土地を表しているかも知れません。そうであれば、神の国の到来は異邦人にも等しく宣言されます。宣教者が運ぶ「平和」は、人種、国籍、身分や性別とは無関係に与えられるからです。彼らがその町の病人を癒すとき、「神の国はあなたがたに近づいた」ことが示されたことになります。

 今日の朗読のまとめ
 今日の主日のテーマは「平和を告げる使者」です。旧約聖書で「平和」と訳されるヘブライ語(シャローム)は、日本語の「平和」よりもはるかに広い領域をもっています。シャロームは、基本的には「何かが欠如したり、損なわれたりしていない充足状態」を指し、そこから特に「神の祝福に満たされた個人と共同体の調和と、その調和の中での、自由で、妨げられることのない魂の成長」を表します。ですから、単に「戦争のない」とか、「穏やかに、やわらぐこと」というだけでなく、さらに積極的に「真に望ましい、救いの状態」を表現する言葉になります。
 第一朗読では、エルサレムに「平和」をもたらす慰めの日が到来することを、使者(第三イザヤ)の口から神自身の言葉として告げられます。
 第二朗読では、「新しく創造された」ということを原理として生きる人たち、すなわちイスラエルの上に「平和」と憐れみがあるようにとパウロは祈ります。
 今日の福音では、使者(宣教者)が「この家に平和があるように」と祈るのは、単なる「家内安全、無病息災」を祈るためではなく、「神からの救いが満ちるように」と祈るためです。平和は神の国(神の支配)が到来したことによってもたらせる祝福なのです。
 このように三つの朗読のすべてに「平和を告げる使者」が登場し、しかもその平和は使者(人間)が作り出すのではなく、神が与えるものです。使者(人間)ができることは祈り求めることです。人間が自力で作ろうとする平和は、結局のところ、人間的な限界をもっており、誰かの考えに他人を押し込むものにすぎないからです。
2022年7月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教