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行って、あなたも
同じように実行しなさい
―年間第15主日C年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ルカによる福音10章25−37節
永遠の命を受け継ぐには
(25−28節)
今日の福音(ルカ)とマタイ(22章37節以下)とマルコ(12章29節以下)の並行箇所を比べて分かることは、マタイとマルコでは「最も重要な掟は何でしょうか」という質問になっているのに反し、ルカでは「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)という問いになっていることです。つまりマタイ・マルコでは、掟の根源としての重要な「愛」を問題にしているのに対し、ルカでは「永遠の命を得る」条件としての「愛」を問題にしています。さらにマタイ・マルコではまだ「第一の掟」と「第二の掟」を区別しているのに、ルカはその区別をなくし、全部を一つの掟にまとめています。
律法学者はまず「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という重大な問題をイエスに投げかけます。律法の教えには何とあるかを逆にイエスに問い返された律法学者は、申命記6章5節とレビ記19章18節を引用し、神を愛し、隣人を愛することだと答えます。イエスはその正しさを認め、「それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」(28節)と教えます。
隣人とは誰ですか(29節)
律法学者もそのことには気づいていたのかも知れません。イエスを試そうとしたのに(25節)、イエスがあまりにも簡単に答えてしまったことに対し、自分の出した問題はそんなに単純なものではないと弁解するかのように、「わたしの隣人とは誰ですか」と問い直します。
律法学者は、自分が真ん中にいて、どこに隣人としての境界線を引くのか、と尋ねています。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい」と言うけれども、隣人とはユダヤ民族全体なのか、或いはサマリア人は省くのか、どのような場合に愛を示す必要があるのか、こういう法律問題を専門家として論じましょう、と考えています。
善いサマリア人のたとえ話
(30−37節)
イエスはたとえ話を語り終えると、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)と問いかけます。注意すべきは、律法学者の質問に対して、イエスは「あなたにとって、だれが隣人であると思うか」と答えていません。だから、イエスは「あなたは、困っている隣人を、祭司やレビ人のように見捨てるのではなく、サマリア人のように助けてあげなさい」と言っているのではありません。
律法学者の質問は、「わたしの隣人とはだれですか」(29節)。つまり律法学者は「誰を愛すべきでしょうか」と尋ねています。イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」(36節)と答えます。つまり律法学者は、愛の対象を問うているのに(だれを愛すべきでしょうか)、イエスは、愛の主体を問い返しています(だれが愛しましたか)。
律法学者は、自分の場所から一歩も動かずに、隣人の範囲を限定して考えていますが、イエスは、追いはぎに襲われた人に近づいて行く人が隣人だと答えています。だから、隣人はどこまでと限定するものではなく、隣人になろうとする態度そのものが大切なのです。
見て憐れに思い、近寄って……
介抱した(33−35節)
ユダヤの思想では、スプランクノン(はらわた)は人間の深い感情の宿るところであると考え、優しい思いやり、切なる憐れみ、熱情、愛情、心情など、この語によって切なる感情そのものを表現しました。
「サマリア人は、……その人を見て憐れに思い、近寄って……介抱した」(33節)。「憐れに思い」は、ギリシア語スプランクノン(はらわた)という名詞を動詞化して、スプランクニゾマイ(はらわたする)という語を使っています。「スプランクニゾマイ(=憐れに思い)」は、追いはぎに襲われた人を見て、はらわたがぎゅっと締め付けられ、思いやりの心で一杯になり、思わず手が出てしまった、という愛し方です。
この重要な動詞「スプランクニゾマイ」は、福音書の中で、重い皮膚病を患っている人を見て「イエスは深く憐れみ」(マルコ1章41節)、大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を憐れみ」(マルコ6章34節)、二人の盲人の叫ぶのを聞いて「イエスが深く憐れんで」(マタイ20章34節)というふうに使われています。これらのことから、今日の福音のサマリア人は模範的なキリスト者を表すより先に、神そしてイエスを表していると考えられます。
今日の福音のまとめ
善いサマリア人のたとえ話は、話をする前とした後とで、教えはそれ以上進展していません。イエスはたとえ話の前は「それを実行しなさい」(28節)で終わり、最後の部分も「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)で終わっています。イエスは教えのレベルに留まっても意味がないので、次のステップに行くように促しています。それは実行することだと言います。
律法の専門家は「それを実行しなさい」と言われたときに、彼が「自分を正当化しよう」としたのも分かります。彼も愛の掟を実行できずにいたからです。頭では理解していても、それを実行できない自分を見るのは、つらいことであり、苦しいことです。
「実行することができない」と嘆くとき、自分自身が追いはぎに襲われ倒れている人とします。神はそれを「見て、憐れに思い、近寄って」隣人となり、何度も何度も介抱してくださいました。この神の憐れみと愛に気づく。これが今日の福音の一番大切なことなのです。
2022年7月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教