印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら
天の父は求める者に
聖霊を与えてくださる
―年間第17主日C年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
第一朗読:
塵あくたにすぎないわたしですが
(創世記18章20−32節)
今日の第一朗読は先週の第一朗読の続きです。先週の第一朗読では、アブラハムに現れた「三人の人」がイサクの誕生を予告したことが朗読されました。22節に「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」とありますが、この「その人たち」とは「三人の人」のことです。しかし、「主」はアブラハムと共に残ったわけですから、ソドムに向かったのは「三人」のうちの二人であって、残りの一人は「主」であったことになります。現に、19章1節には「二人の御使い」とあります。創世記の現在の文脈では「三人の人」は「主」と「二人の御使い」とされているのは明らかです。
ソドムの町を裁こうとする主に、アブラハムは「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(23節)と尋ね、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせる」ことは神の行う正義ではない、と主張します(25節)。このように問うアブラハムに、神は「正しい者が五十人いるならば、町全部を赦そう」と言って、彼の願いを聞き入れます(26節)。それに力を得たアブラハムは「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて……」(27節)と述べて、必死に緩和してもらおうとして問い続けます。そして彼は、ついに「十人のためにわたしは滅ぼさない」ということばを手に入れます(32節)。
アブラハムが「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて……」(27節)と述べるとき、この「塵あくたにすぎない」は、神の前での謙遜(けんそん)です。アブラハムの謙遜は、「神は慈しみ深く、赦しを与える方のはずだ」と信じることから生じています。やがて神は「正しい者はひとりもいない」のに、御子イエスを十字架上で処断することによって、無条件に私たちを赦します。
第二朗読:
神は私たちの一切の罪を赦した
(コロサイ書2章12−14節)
第一朗読では、アブラハムは「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(創世記18章25節)と訴えます。神は全地の「裁き手」ですから、「正しさ」を備えなければならないのは当然のことです。
私たちの考える「正しい裁き」は、悪を根絶することを含んでいます。しかし、神が最終的に示した「正しさ」は、「一切の罪を赦し、……私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除く」(コロサイ書2章13−14節)という形で現されました。正しく裁くはずの方が選んだ道は、十字架によって「一切の罪を赦す」ということにありました。これは「塵あくたにすぎない」人間が要求できるようなことではありませんが、神は愛ゆえにこの道を選びました。こうして私たちは「一切の罪を赦された」者として生きることができるようにされているのです。
福音の前半部:主の祈り
(ルカ11章1−4節)
「主の祈り」とイエスの受難・十字架との間には深い関係があります。「御名が崇められますように」(2節)は、受難・十字架を前にしたイエスが父に向って「父よ、御名の栄光を現してください」と祈ります(ヨハネ12章28節)。つまりイエスの受難こそは父の名に最大の栄光をもたらすものだったのです。
「御国が来ますように」(2節)は、十字架上で回心した犯罪人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったとき、イエスは即座に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束します(ルカ23章42−43節)。
「私たちの罪を赦してください」(4節)は、イエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ることによって十字架上で与えられ(ルカ23章34節)、「私たちに必要な糧を毎日与えてください」(3節)についても、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にする」(ルカ22章30節)ということばが最後の晩餐の席上で発せられます。
神は愛ゆえに、受難の道を選びました。したがって、イエスの受難こそまさに「主の祈り」の背景にあり、これを唱える者を受難(=神の愛)へと結ぶのです。
福音の後半部:聖霊を祈り求める
(ルカ11章5−13節)
今日の福音の前半部でイエスは主の祈りを教えてから(1−4節)、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という勧めを語り、「求め、探し、たたく」ことの重要性を強調します(9−10節)。
この中央部(9−10節)の前後にたとえが置かれています。前に置かれたたとえ(5−8節)は、真夜中にパンを求めて友人の家を尋ねる人の話であり、ここでは人の取るべき態度が「しつように頼む」(8節)こととして述べられています。
後に置かれたたとえ(11−13節)のねらいは13節に書かれています。魚をほしがる子どもに蛇を与えたり、卵をほしがるのにさそりを与えたりする父親はいません。良い物を与えます。天の父は地上の父よりもさらに確実に良い物、すなわち「聖霊」を与えて下さいます。
今日の朗読のまとめ
今日のテーマは、忍耐強い祈りの効果です。第一朗読ではアブラハムが嘆願を重ね、福音ではイエスが「主の祈り」の後、たとえ話の中で「しつように頼む」ことについて話します。祈りが聞き入れられるのは、旧約では「塵あくたにすぎないわたしですが」というアブラハムの謙遜によりますが、新約では「天の父」である神の愛であることが示されます。
私たちが宣教に従事するとき、順境にも逆境にもぶつかります。しかし、どんな時にも、祈り求めて与えられた聖霊によって常に新たにされ、先へと向かう力を受けます。私たちに必要とされることは「父よ」と忍耐強く祈り、「求め、探し、たたく」ことです。そうするなら、求める者の祈りに愛をもって答える神は聖霊を与え、時宜にかなった指導を行います。
2022年7月24日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教