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いったいだれのものになるのか
―年間第18主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:すべては空しい
  (コヘレトの言葉
   1章2節、2章21−23節)

 「コヘレトの言葉」は「知恵の書」や「箴言(しんげん)」などと共に知恵文学に分類されますが、他の知恵文学とは違って、「空しさ」を繰り返し述べる書です。「空しい」という語(ヘヴェル)は、もともとは「蒸気・もや」や「息」を意味し、そこから「蒸気のようにはかなく、もろく、無価値で、虚しいもの(意味……内容のないもの)」を意味する言葉となりました。
 普通、知恵文学は「善人は栄え、悪人は滅びる」という原理に立って、知恵を求めることの大切さを説きます。しかし「空しさ」を訴えるコヘレトは、この原理の正しさを真っ向から否定する現実がそこにあるのではないかと主張します。
 「わたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる」(3章16−17節)。
 「貧しい人が虐げられて(しいたげられて)いることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから」(5章7節)。
 「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」(7章15節)。

 このようにコヘレトは「善人は栄え、悪人は滅びる」という原理の妥当性を否定します。
 コヘレトは万物の創造者としての神を信じています。しかし彼の目には、神は勝手きままに振る舞う、移り気な存在としか映りません。従って、神との人格的な交わりも不可能であり、神に祈っても無意味だと考え、「わたしは快楽をたたえる。太陽の下(もと)、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」と結論づけます(8章15節)。ですから、コヘレトは「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と述べます(1章2節)。

 第二朗読:地上的なもの
  (コロサイ書3章1−5・9−11節)

 1−2節では「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留めなさい」と主張し、コロサイ教会の人々の視線を「上へ」と向けさせます。キリストを信じる者は「地上」に生きていますが、「上にあるもの」に心を向けてそれを追い求めます。
 従って、キリスト者はまず地上的なもの「みだらな行い、……貪欲」を捨て去るように指示されます(3章5節、貪欲は今日の福音ルカ12章15節にもあり)。「貪欲(プレオネクシア)」は、「より多く持つ」という動詞から派生した語で、「持てば持つほど際限なく持ちたいという欲望」、「不正な手段まで用いて物を奪い取る欲望」を意味します。その「貪欲」が「偶像崇拝」であることは(3章5節)、自分の欲望をこの世で最も重要なものと考え、他者を利用して利益を得るものとみなし、自分と自分の欲望のみを神とする者の罪を言います。このような貪欲は、人の心をふさぎ、神の声を聞こえないようにしてしまいます。

 福音:神の前に豊かになりなさい
  (ルカ12章13−21節)

 17−19節の金持ちの言葉をギリシア原文で見ると、ここに現れる動詞はすべて一人称単数形であり、「私」が主語になっています。さらに、「私の収穫」「私の倉」「私の穀物や財産」「私の魂」というように、「私の」が四回も用いられており、金持ちの関心が常に自分自身に向けられていることの証しとなっています。この人物の関心は他者に向けられることがありません。
 神はこのような金持ちを「愚か者」と呼びます(20節)。彼が愚かなのは、彼の頭の中には「私の」が満ち溢れ、「神」のための場所が用意されていないからです。だから、イエスは「神の前で豊かになる」ようにと教えます(21節)。

 今日の朗読のまとめ
 私たちは財産や地位や名誉や業績といったものを蓄えるために労苦しますが、それをコヘレトが憤慨するように「まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならない」ものなら(2章21節)、「すべてが空しい」と口にしたくなるのも分かります。
 今日の福音では、コヘレトとは違って、蓄えること自体に楽しみを感じている「金持ち」が登場します。しかし、17−19節の彼の言葉には「私の」が四回も使われていることに端的に示されているように、彼の目は「上にあるもの(神)」にも隣人にも向いていません。
 神は彼に対して、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と宣告します(ルカ12章20節)。神の目に彼が「愚か者」なのは、死期がいつになるかを理解していないということではありません。自分の死がいつになるかを知ることは不可能です。イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12章21節)と加えていますから、金持ちの愚かさの根源は「自分のために富を積む」ということにあります。
 今日の第二朗読は「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。……上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と説いています(コロサイ書3章1−2節)。私たちが「自分のために富を積む」という生き方に集中しがちなのは、「上にあるもの(神)」に目が向かわないからです。
 コヘレトが言うように、人間は「空しい」者にすぎません。神を信じても、「空しさ」が消滅することはありません。しかし、私たちが人間の「空しさ」を知ることは、軸足を「上にあるもの(神)」に置く生き方への第一歩となります。そのとき人間の「空しさ」が、どうにもならない「空しさ」から、「神に埋め合わせてもらえる空しさ」へと変質するのです。
2022年7月31日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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