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目を覚ましているのを見られる
僕たちは幸い
―年間第19主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:過越の夜に
  (知恵の書18章6−9節)

 6節に「あの夜」とありますが、これはエジプトの初子(ういご)が殺された過越の夜、つまりエジプト脱出の夜を指しています。出エジプト記11章4−7節によれば、真夜中に主(しゅ)がエジプトの初子を撃つけれども、イスラエルに対しては「犬ですら、……うなり声を立てません」と予告されていました。エジプトには大混乱となる出来事も、イスラエルにとっては不安の種とはなりません。なぜなら、「彼ら(イスラエル)はあなた(神)の約束を知って、それを信じていた」からです(6節)。
 神の約束を信じる「神に従う人々」には救いがあるけれども、神の言葉を無視してイスラエルの脱出を認めなかった「敵ども」には滅びがくだります(7節)。神は「反対者への罰に用いたその出来事」で、イスラエルを光栄へと招きます(8節)。
 このように、神に従うイスラエルと神に敵対したエジプトを対照的に描くのは、「知恵の書」が書かれた目的と関係しています。この書はギリシア文化の魅力に心ひかれ、先祖伝来の信仰から離れようとするディアスポラの(パレスチナを離れて暮らしている)ユダヤ人に向けて書かれています。彼らの心を信仰へと引き戻すためには、このような書き方が必要だったのです。

 第二朗読:信仰によって
  (ヘブライ人への手紙
   11章1−2節、8−12節)

 1節の「望んでいる事柄」「見えない事実」とは、「神の約束の実現」を指しています。神が約束した確かな約束ですから、それに対する人間の姿勢は「信仰」でしかありません。しかし、確かさは私たちの信仰にあるのではなく、神の約束にあります。その意味で「信仰」は、神が与える「希望」と同じです。「信仰」は、他の者が主観的確信としか見えない事柄に、客観的根拠を提供します。つまり、神の約束が必ず実現することを、それが実現していない今「信じる」ことは、神の約束の確かさを他の者に示すことになります。そのような信仰を示した人々として、今日の第二朗読はアブラハムとサラを取り上げます。
 アブラハムはカナンの地に入っても、そこには定住せず、移動生活をする遊牧民が用いる「幕屋」に住みました(9節)。幕屋に住んだということは、彼の立場が寄留者であったことを表しています。アブラハムが寄留者として約束の地カナンに住んだのは、カナンはアブラハムが召し出された旅の中間点に過ぎず、「神の都を待ち続けていた」からです(10節)。
 年老いたサラは「約束をなさった方は真実な方である」と信じて、子どもを授かりました(11節)。アブラハムとサラの歩みを支えたのは、神は「真実な方」であると信じた信仰です。「真実な方」を信じた彼らは、「海辺の数えきれない砂」のように多くの子孫に恵まれました(12節)。神の約束の確かさは、このような恵みの豊かさとなって現されました。

 福音:何が土台となるのか
  (ルカによる福音
   12章35−40節)

 第二朗読は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」で始まっています。この意味はさまざまに解釈されていますが、「信仰が望まれている事柄(=見えない事実)の土台となるとき、それがすでに実現していると言えるほどに確信している」という意味だと思われます。
 37節bは「望まれている事柄(=見えない事実)」に相当します。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」という「望まれている事柄」が信仰という土台の上に置かれるとき、「それがすでに実現していると言えるほどに確信している」という現実となります。
 このような確信を持つなら、「腰に帯を締め、ともし火をともしている」こと(35節)は重たい義務ではなくなるし、思いがけないときに到来する人の子のために「用意する」こと(40節)においても油断することがありません。「見えない事実」を確認しているからです。

 今日の朗読のまとめ
 今日の福音は、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」であり(37節a)、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」(38節)、と述べます。なぜなら、「主人が帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」からです(37節b)。この37節aと38節は、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸い」という表現によって対応しています。
 ここで「目を覚ましている」と訳された動詞(グレーゴレオー)は、汽灰螢鵐判16章13節に、
 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく(おおしく)強く生きなさい。
とあるように、キリスト者の基本姿勢を表す言葉の一つです。
 37節bに述べられた「望まれている事柄(=見えない事実)」を信仰において確信しているので、目を覚ましていることができるのであって、その逆ではありません。
 すなわち、人の子がいつ来るのか、神の最終的な介入がいつ起こるのか(40節)、誰も知りません。だから、油断せずに「目を覚ましている」ことが必要となりますが、主人が帯を締めて給仕する食事が待っているのですから(37節b)、不安に脅えながら「目を覚ましている」のではありません。救いの希望に燃えて待っています。キリストが救いのために来るという希望が私たちを支え、「目を覚ましている」ことを可能にします。
 将来への希望は人の目を覚まさせます。喜びの食事が待っていることを知る私たちは、未来に目を奪われて現在を忘れるのではなく、むしろ未来を信じているからこそ現在を真剣に生きます。将来を希望のうちに待つ者は、安心して現在へと目を向けることができます。
 「目を覚ましている」ことがキリスト者であることの「しるし」なのです。
2022年8月7日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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