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わたしには
受けねばならない洗礼がある
―年間第20主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  捕囚はイスラエルの罪の結果
  (エレミヤ書
   38章4−6節・8−10節)

 ゼデキヤ王は紀元前597年の一回目の捕囚の際に、バビロンに連行されたヨヤキム王に代わって、バビロニア王ネブカドネザルが王とした人物です。ですから、最初のうちはネブカドネザルに忠誠を誓っていましたが、紀元前601年にエジプト国境に進んだネブカドネザルが勝利を手にできなかったのを知ったのをきっかけとして、エジプト側に寝返り、バビロニアへの貢物を拒否しました。ネブカドネザルはただちに行動に移り、三年間の包囲の後に、エルサレムを陥落させて神殿を焼き払い、もはや王を立てることを許さず、バビロニアの属州の一つに併合しました。これが紀元前587年の二回目の捕囚です。
 今日の朗読は、紀元前587年のエルサレム陥落の直前に、包囲された都の中で起こった出来事が朗読されます。国内に存在した反バビロニア派の主張に押し切られたゼデキヤ王は、彼らの要求に従ってエレミヤを逮捕し、水溜めにつり降ろしてしまいますが(4−6節)、状況がいっそう悪化したとき、クシュ人エベド・メレクの進言を入れて、エレミヤを救出させます(8−10節)。この指導力を欠いたゼデキヤの優柔不断さが亡国を早めましたが、根本的な原因はもっと根深いところにあります。
 紀元前597年の一回目の捕囚の4年後に、預言者ハナンヤは「イスラエルの神、万軍の主は言われる。わたしはバビロンの王の軛(くびき)を打ち砕く。二年のうちに……」捕囚は終わると述べ、捕囚は一回限りのことだと主張しました。しかし、エレミヤはそれに対し、「イスラエルの神、万軍の主は言われる。……バビロンで七十年……」と述べます。イスラエルは罪から清められるために、「バビロンで七十年」の捕囚生活を忍ばねばならないと考えるエレミヤは、バビロニアへの降伏を説きます。
 注意したいのはハナンヤもエレミヤも「イスラエルの神、万軍の主は言われる」と述べてから、一方は二年後の捕囚の終了を宣言し、他方は七十年続く捕囚を宣言していることです。ハナンヤから見れば、降伏を説くエレミヤは「民衆の士気を挫く(くじく)」売国奴でしかありません。ですから、エレミヤを苦しめることにはほとんど苦痛を感じないばかりか、それを神への義務とすら考えています。
 しかし、エレミヤは紀元前597年の一回目の捕囚に神からのしるしを見ていました。この悲劇は神のことばを聞くことのできない罪の結果だと捉えていました。それは悲劇の始まりなのであって、七十年の間、苦しみを忍ぶことによって、再生があると考えています。

 第二朗読:
  競争を忍耐強く走り抜く
  (ヘブライ人への手紙12章1−4節)

 11章では、約束されたものを望み見て忍耐し、信仰を生き抜いた旧約時代の先人たちの姿が述べられています。著者は彼らを「証人」と呼び、このように数多くの信仰の証人がいるのだから、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」(1節)と呼びかけた後に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(2節)と述べます。
 「競争」という語は、新約聖書ではもっぱらキリスト者のこの世での生き方としての「戦い」を表します(フィリピ書1章30節、コロサイ書2章1節、汽謄汽蹈縫噂2章2節)。この手紙が求めている生き方は「信仰を守り抜く」ことです。
 イエスが「信仰の創始者」であるのは、旧約時代の証人たちに先立って、彼らの信仰を導いたと見なされているからです。神を信じる者たちの初めとなり、導くのが「信仰の創始者」イエスです。また、イエスは「信仰の完成者」でもあります。イエスは神の思いに最後まで従い、それを実現するために、十字架の死を受け入れました。人々から嘲られ(あざけられ)、ののしられても、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍びました」(2節)。そのイエスを神が玉座の右に着かせたのは、イエスが示した信仰こそが完全な信仰だからです。それゆえ、イエスを「信仰の完成者」と呼びます。キリスト者はこの「信仰の創始者また完成者」イエスから目を離さず、自分の前に置かれている競争を走り抜かれなければなりません。

 福音朗読:
  イエスが受ける洗礼
  (ルカ12章49−53節)

 49節と51節の次の文章は、「目的語+主動詞+不定法」という同じ文型で書かれています。49節 を 私は来た 投げるために 51節 平和を 私はやって来た 与えるために 「火」と「平和」が対応しています。この対応を考えると、「火」はまずは裁きの火ではなく、「信仰の火」であり、真の平和をもたらす火のことです。しかし、その意図とはまったく反対に、この火は「分裂(直訳 裂け目)」を作り出してしまいます。それはイエスを受け入れる側に問題があるからです。人々は神から遠く離れていますが、自分では神の側に立っていると思い込んでいます。そのような者にとって、イエスの言葉は耳障りでしかなく、聞くに値しない言葉と映ります。こうして人々は、神の言葉を自信たっぷりに拒絶することになります。
 この拒絶の極みが十字架という「洗礼」です。しかし、イエスは十字架という「洗礼」によって、この「裂け目」を身に背負い、神と人との間に平和をもたらします。イエスの十字架は神と人との裂け目を解消するためのたった一つの架け橋です。

 今日の朗読のまとめ
 今日の主日のテーマは、神に奉仕する人が受けるべき苦難です。第一朗読では、神のことばの真正な告知者である預言者エレミヤの受けた苦難が描写されています。同じように、御父の思いを何ものよりも優先し、御父から派遣された最後の預言者イエスも迫害されます。イエスは自分の十字架上の死が引き金となって、弟子の上に集団的な苦難が襲いかかることを予見し、弟子たちがイエスの苦しみに結ばれることを求めます。実際、第二朗読のヘブライ人の手紙の読者は、それまでにない激しい迫害の危険にさらされていたのです。
2022年8月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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