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人々は、東から西から来て、
神の国で宴会の席に着く
―年間第21主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  神の栄光を示す「しるし」
  (イザヤ書66章18−21節)

 今日の朗読は、異邦人全体が「主の栄光を見る」と述べています(18節)。「栄光」の原義は「重み」ですから、彼らが目にする「栄光」とは、出来事を通して示される神の「重み」のことです。この重みによって偶像崇拝の無意味さが暴露され、主(しゅ)だけが真の唯一の神であることが人々に知られるようになります。
 しかし、19節に「彼ら(異邦人)の中から生き残った者」とありますから、全員が救われるのではなく、滅ぼされる者もいます。真の神である主の栄光を目にしても悟らず、神との関わりに生きることに失敗した人たちです。しかし、主の栄光を認めて神へと戻り、「生き残った者たち」は全世界へと派遣されます。神は全世界に派遣される者たちのために「しるし」を置きます。それは未知の国への道順を示す道標のことでしょうが、彼らを人々から見れば、彼ら自身が神の栄光を示す「しるし」となります。
 この18−19節では、世界の果てに向かう動きが強調されていますが、20節ではそれを修正するかのように、エルサレムへの逆の動きが語られています。つまり、地の果てへと派遣された「生き残った者たち」は、そこに散らされていたイスラエル(「あなたたちのすべての兄弟」)をエルサレムの神殿へと連れ帰るとされています。
 いずれにしても、21節で「祭司とレビ人(れびびと)」として神に仕える「彼ら」の中には、異邦人も含まれているはずです。だとすれば、ユダヤ人と異邦人の垣根が取り払われ、一つになって神を礼拝する時が来ることに大きな期待をかけていることになります。この期待はキリストを通して実現されました。
 今日の福音との関わり……
  ユダヤ人自身が狭くした
  「戸口の狭さ」

 今日の福音には「神の国」という表現が28節と29節に使われていますが、28節によれば、そこは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」、つまりユダヤ人の先祖たちが集まっている場所であり、29節によれば、「東から西から、また南から北から」来た人々、つまり異邦人が宴席に着く場所だとされています。
 しかも、今日の福音でのイエスの語り相手となる「あなたがた」(25・26・28節)は、戸が閉められてから、戸をたたき、主人に「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(26節)と訴えていますから、ユダヤ人です。
 そうであれば、24節の「狭い戸口」とは、今は、ユダヤ人にとっては狭くなってしまっているけれども、異邦人には広く開かれている「福音を受け入れるための戸口」のことだと言えます。イエスが歩む十字架への道はユダヤ人の待ち望んでいたはずのメシアの道であるのに、彼らはそれを認めることができず、入ろうとはしませんでした。彼ら自身が戸口を狭くしたので、「狭い戸口」となってしまっているけれども、それが神の国への入口なのです。
 イエスは「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と語ります(30節)。ユダヤ人は救いの約束を受けた「先の人」でしたが、「後の人」に過ぎなかった異邦人が先に神の救いにあずかることになります。

 第二朗読:
  主は愛する者を鍛える
  (ヘブライ人への手紙
   12章5−7節・11−13節)

 迫害に直面している読者を励ますために、箴言から「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭(むち)打たれる」(6節)という言葉を引用します。「鞭打つ」という語は、イエスの受難と弟子たちが受ける迫害を述べる際に使われた言葉です。ですからこの手紙も、鞭打たれ、嘲られ(あざけられ)、十字架に死んだイエスを見つめながら忍耐することを求めています(12章2−3節)。あなたがたが鞭打たれることがあるとしたら、それは「主の鍛錬」(5節)であり、神があなたがたを子として愛していることのしるしです。
 今日の福音との関わり……
  狭い戸口から入るように
   努めなさい(戦いなさい)

 イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい(直訳 戦いなさい)」と命じます(24節)。直訳の「戦う」という動詞は、スポーツ競技者が勝利を目指して体を鍛え努力することを表す競技用語です。ですから、人を押しのけて戦うというよりは、自分を鍛錬する努力を指すと言えます。しかも「戦いなさい」は現在形ですから、今、必要とされる鍛錬が教えられています。戸口をくぐり抜けるための努力は、今すぐに始めなければなりません。なぜなら、家の主人が立ち上がって戸口を閉めてしまう時が来るからです(25−27節)。
 「戸口」がいつ閉じられるのかは誰にも分かりません。家の中で開かれる宴会の席(28−30節)に招かれるためには、「今」を活用して神に心を開き、イエスとの関わりに生きるようにと「鍛錬する」必要があります。「戸口」を狭くするのは、自分は救いにあずかれるという慢心です。神は誰に対しても「戸口」を開いています。それを生かすかどうかは、私たちにかかっているのです。

 今日の朗読のまとめ
 イエスは「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と語ります(29節)。私たちがこの神の国の宴席に着くためには、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と命じます(24節)。私たちは、洗礼を受けたことによって、救いの道へ導く「狭い戸口」の入口を通りましたが、洗礼は入口、はじまりにすぎません。それによって信仰の旅を歩み始めたのです。
 第二朗読は、神が私たちをどのように育てるかを教えてくれます。それは鍛錬です。私たちは人生の出来事によって鍛えられますが、洗礼を受ければ人生の試練から免れると約束されたのではなく、私たちは試練を信仰によって耐え忍ぶことで鍛えられます。それによって私たちはイエスの生き方にならい、神と隣人を愛することに努めるのです。イエスは呼びかけます。「努めなさい」と。「努めなさい」は、私たちへの忠告、励まし、掛け声なのです。
2022年8月21日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教