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だれでも
高ぶる者は低くされ
へりくだる者は高められる
―年間第22主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:自らへりくだれ
  (シラ書3章
   17−18・20・28−29節)

 第一朗読では「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。……主(しゅ)はへりくだる人によってあがめられる」(18・20節)と述べ、「へりくだる」ことの大事さを説いています。ここでの「へりくだり」は、「主の威光は壮大」(20節)ということを知った者の「へりくだり」ですから、人間関係を円滑にするための作法ではありません。真に偉大なもの(=神)を目にしているので、自ず(おのず)と「へりくだる」ことになります。
 主(しゅ)はこのへりくだる人によって、「あがめられる」ことになります。なぜなら、へりくだる人は成功を自分の力の結果とはせずに、主が働いたからだと知っているからです。ここで「あがめる」と訳された動詞(ドクサゾー)は、「栄光」を意味する名詞(ドクサ)から派生した動詞です。ちなみに、今日の福音で「面目を施す」(ルカ14章10節)と訳された表現を直訳すれば、「栄光があなたにある」となります。「栄光」の出所が神にあると知っているので、神に栄光を帰し(かえし)、あがめます。
 それに対して、「高慢な者」とは「自分で自分に栄光を帰す(かえす)人」のことです。彼らは神を認めようとはせず、自分を際立たせます。このような者は世界の支配者である神を無視しますから、手の施しようのない「災難」に見舞われてしまいます(28節)。

 第二朗読:
  新しい契約の仲介者と共に
  (ヘブライ人への手紙
   12章18−19・22−24節a)

 18−19節では、荒れ野を歩むイスラエルの民がシナイ山のふもとで体験した光景を語ります(出エジプト記19章16−19節、20章18−21節、申命記4章11−12節)。22−24a節では、キリスト者に約束されている終末の出来事が述べられ、18−19節の、イスラエルの民に律法が授与された場面と対比されています。
 荒れ野のイスラエルは「これ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」に近づきましたが(18−19節)、「あなたがた」が近づいたのはまったく異なるものです。律法授与の際には、シナイ山に上ることが許されたのは仲介者モーセだけであり、イスラエルの民はふもとに留まらねばなりませんでした。しかし、新しい契約の時代には、イエスのあがないの業によって、「あなたがた」が神に近づくことが許されています(22−24節a)。つまり、神は「燃える火、黒雲、暗闇……」に隠れながら現れる神としてではなく、「新しい契約の仲介者イエス」として現れ、私たちと共に生きてくださいました。
 ギリシア語パラボレーは、第一朗読では「格言」と訳されていますが、福音書では「たとえ」と訳されています。背後にはヘブライ語のマーシャールがあります。このヘブライ語は、基本的には「背後にあって表現されていない事柄を何かとの比較によって言い表す表現形式」を指し、そこから「格言・比喩(ひゆ)・なぞ」という意味になります。
 「新しい契約の仲介者」であるイエスのことばはすべて「たとえ」であり、「格言」となります。イエスこそ天の父の思いを現す方(かた)ですから、そのことばは「背後にあって表現されていない事柄を言い表す」ものとなるからです。

 福音:面目を施す
  (ルカ14章1・7−14節)

 イエスは、招かれた人々が上席を好む様子を見て「たとえ」を語りだします(7節)。宴会でどの席に座るかはその人の名誉に関わることです。イエスは、8−9節では「もし上席に着いた後(あと)で、末席に移るように言われたら、恥をかくことになる」と警告し、10−11節では「むしろ末席に行きなさい」と教え、上席を勧められれば、「面目を施すことになる」と述べます。「面目を施すことになる」の直訳は「栄光があなたにある」です。
 「たとえ」の次元で考えれば、確かに「面目を施す」ということですが、「背後にあって表現されていない事柄」との関わりで言えば、やはり「栄光」を指しています。「栄光」はここでは「名誉」を意味していますから、この教えは処世術であり、生活の知恵だと言えます。しかし11節のことばによって、それは作法を教える処世術に終わらず、神の国の秩序を指し示す「たとえ」に変わります。
 「低くされる」も「高められる」も受動形ですが、低くしたり高くしたりする行為者が神であることを示す神的受動形です。ですから、「上席ではなく末席に」と教える生活の知恵を語る形を取りながら、実は神から「栄光」を受けるための知恵をイエスは語っています。 
 「へりくだる」(11節)の直訳は「自分を低くする」です。「へりくだる者」とは自分の思いよりも、神の思いを先に立て、神の前に自分を低くして、従順に生きる者を表しています。高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められるのが、神の国の秩序なのです。

 今日の朗読のまとめ
 神が招待者である「神の国の宴会」では、誰が神にお返しなどできるというのでしょうか。神は、文句も言わず、人々の身分を限定せず、報いも期待しません。したがって、イエスは神の国の「栄光」に入るために必要な態度を教えています。それは、お返しができない人たち(貧しい人、障がいを持つ人、今日的に言えば、失業者、対人関係で悩んでいる人、人生の生きがいを探している人、人生の道で迷っている人々など)を食卓に招くということです。
 当時のクムラン宗団の人々は、「貧しい者」と自称していましたが、自分たちの「神の集会」に障がい者を受け入れることを拒否し、共に集会の席に着きませんでした。だから、今日の福音でイエスは、キリスト者に、貧しい人や障がいを持つ人の必要に応えよ、と言っているのではありません。イエスは、彼らを食事(=ミサ)に招待せよ、と言っているのです。 
 今日の福音は誰かに食べ物を送れと言っているのではありません。むしろ、共に食卓の席に着くことが重要です。へりくだって他者を受け入れ、自分と同等の者とみなし、結びつきをかたいものとする明らかな「しるし」が、共にパンを裂く(=ミサ)という行為なのです。
2022年8月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教