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自分の十字架を背負って
ついて来る者でなければ、
だれであれ、
わたしの弟子ではありえない
―年間第23主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  ルカによる福音14章25−33節

 二つのたとえ話(28−32節)
 二つのたとえ話をよく見ると、まったく同じパターンが使われているのが分かります。

 最初のたとえ話(28−30節)では、
(1)「……塔を建てようとするとき
(2)「……十分な費用があるかどうか
(3)「まず腰をすえて
(4)「計算しない者がいるだろうか
(5)そうしないと……
とあります。

 二番目のたとえ話(31−32節)では、
(1)「……戦いに行こうとするとき
(2)「……迎え撃つことができるかどうか
(3)「まず腰をすえて
(4)「考えてみないだろうか
(5)もしできないと分かれば……
と展開されます。

 傍線部に注目すれば、同じ構成の、対(つい)となった「たとえ話」であるのか明らかです。対になっていますから、同じねらいをもったたとえ話のはずです。
 二つのたとえ話に共通するねらいは「まず腰をすえて」(28・31節)です。「まず腰をすえる」のは、計算したり、考えたりするためですが、この表現自体は「ほかの仕事を一切捨てて」といった意味だと思われます。塔を建てるのに必要な準備はたくさんありますが、いったんはそれをすべて脇に捨て置き、「まず腰をすえる」ことが必要です。同様に、戦争を始めるためにはさまざまな準備が必要ですが、いったんはそれをすべて脇に捨て置き、「まず腰をすえる」ことから始めます。つまり、塔を建てたり、戦争を始めたりするにあたっては、行うべき準備はたくさんあるでしょうが、それらを「捨てて」、成算(せいさん 意味……成功する見通し)とか、勝算があるかどうかを考えます。
 この二つのたとえ話に続いて、イエスは「だから、同じように」と述べて、「一切を捨てる」ことを求めています(33節)。「まず腰をすえて」計算したり、考えたりすることの大切さを述べたのは、「一切を捨てる」という姿勢がイエスの弟子に求められているからです。

 何を憎むのか(26−27・33節)
 対となった二つのたとえ話と33節から考え、弟子の条件が「捨てる」ことに置かれているのは確かだと思われますが、いったい何を捨てるのでしょうか。それを知るために、26−27節に書かれた条件をまとめると、
 (私のもとに)来る
 父や母などを憎む
 自分の十字架を背負う
 (私の後を)来る

となります。この四つの動詞は一連の動作、つまり「私のもとに来て、父や母などを憎み、自分の十字架を背負って、私の後を来る」ということを表しています。そうであれば、「父や母などを憎む」ことと「十字架を背負う」こととは、互いに関連し合っていますから、背負うべき十字架とは、家族の間に最も濃密な形で現れる人間関係に関する十字架です。
 あるがままの人間はさまざまな欠点を持っており、なかなか受け入れることはできません。この受け入れがたい相手の欠点をここでは「十字架」と呼んでいます。私たちが背負うべき十字架とは、共に生きるべき相手、しかもあるがままの、欠点に満ちた相手のことです。
 あるがままの相手を背負えないのは、私たちの頭の中に相手についての理想像があって、それが邪魔するからです。弟子が憎むべき「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」とは、私たちが勝手に思い描いた「相手の理想像」であって、現実の欠点だらけの相手のことではありません。むしろ、欠点だらけの「あるがままの相手」を十字架として背負うために、「相手についての理想像」を憎んで捨て去ります。
 そうであれば、憎むべき「自分の命」の意味を明らかです。命(プシューケー)には、「欲望や感情を含め、人間の内面生活の場としての心」という意味があります。ここでは自分の命といえるほどに大事にしている「夢」を指しています。自分が思い描くすべての「夢」をいったん捨て、神の思いに従うことが求められています。そういえばイエスは、私たちに対する「夢」を捨て、あるがままの私たちを「自分の十字架」として背負ってくださいました。

 「被造物を大切にする世界祈願日」
  に向けて

 今日の福音は、人間同士の数多くの欲望や感情が絡み合った世界の中で、イエスと福音の要求(例 自分の十字架を背負いなさい)が、他の事柄に優先するだけでなく、実に、他の事柄を規定し直すのだ、ということを教えます。このことは、ある事柄を捨てることや、その方向を転換することを必然的に含んでおり、これから先もそうあり続けます。
 今日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。「被造物の声を聞け」―これが今年の「すべてのいのちを守るための月間」(9月1日〜10月4日)のテーマです。「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージは、「まず叫んでいるのは、……母なる大地です。私たちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つよう私たちに懇願しています。ですから、叫びをあげているのはすべての被造物です」と述べます。
 教皇は「エコロジカルな回心」を深めることを勧めています。地球は、神が共通の家として人間に与えました。国々が多様性をもったまま環境問題に向き合うためには、共通の家という視点が必要です。エコロジカルな回心は、地球を与えてくださった創造主の慈しみに感謝し、地球上のすべての「いのち」について考えることによって、私たちを解決の道へと導きます。教皇メッセージは、「他の被造物から切り離されているのではなく、万物のすばらしい交わりである宇宙の中で、他のものとともに育まれるのだということを、愛をもって自覚すること」の中に、キリスト者の霊性を基礎づけなさいと招き、過剰な消費主義、虐待と破壊からの方向転換を私たちに呼びかけています。
2022年9月4日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文冒頭の「二つのたとえ話」の部分は、原文(Wordファイル)では四角で囲まれ、左半分に「最初のたとえ話」が、右半分に「二番目のたとえ話」が書かれていますが、これはスマートフォンでは読みにくい上、Web上で四角で囲むのは難しいので、四角で囲まない通常の形にさせていただきました。
また、本文中で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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