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悔い改める
一人の罪人については、
大きな喜びが天にある
―年間第24主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:災いを思い直す
  (出エジプト記
   32章7−11・13−14節)

 シナイ山で神と契約を結んだ後、再び山に登ったモーセが神から新たな指示を受けている間、民はふもとに留まりました(出エジプト記25−31章)。モーセの下山が遅れて不安を覚えた民が迫ると、アロンはそれに応じ、「若い雄牛の鋳造」を造ります(32章1−6節)。民はその像にひれ伏し、いけにえをささげて「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトから導き上った神々だ」と叫びます(8節)。このような行動をとる民を神は「あなた(モーセ)がエジプトの国から導き上った民」と呼びますが、これは原文では「あなた(モーセ)の民」です。神は怒り、もはや「わたしの民」とは言わず、捨て去ろうとします。
 8節で「神々」と訳されている言葉は「唯一の神」をも表すことができます。おそらくアロンの意図は、目に見えないヤーウェ(出エジプトを行った神)のための台座として若い雄牛の像を造ったのだと思います。それでも、罪とされたのは、カナンの主神エル(バアル)も雄牛像で表されており、容易に混同される危険があったからです。それに偶像を造り、それを礼拝することは十戒で厳しく禁じられていました(出エジプト記20章4−6節)。
 神は民を「かたくなな民」と評価し、彼らが取った行動に対して「わたしは彼らを滅ぼし尽くす」と罰を決意します(9−10節)。しかし、モーセが神の名誉と神の約束に訴えて執り成すと(11−13節)、いったんは宣告した災いを神は「思い直す」ことになります(14節)。
 神は決意をひるがえして、民との関わりを続行させます。旧約聖書は、民に対する神の譲歩の歴史です。その頂点が、民の罪の赦しのため、神が独り子を十字架に上らせることです。

 答唱:打ち砕かれ悔いる心
  (詩編51
   3−4・12−13・18−19節)

 詩編51は、七つの「悔い改めの詩編」(詩編6・32・38・51・102・130・143)のひとつです。罪を告白して赦しを祈る詩編作者は(3−4節)、交わりの回復を願い(12−13節)、砕かれた心をささげます(18−19節)。恐ろしい罪を犯した人がそれを告白し、「打ち砕かれ悔いる心」(19節)を神にささげて賛美する歌となっています。

 第二朗読:
  イエスは救うために世に来られた
  (汽謄皀1章12−17節)

 パウロはかつて「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」でした(13節)。その意味で、パウロは「罪人の中で最たる者」です(15節)。しかし、そのパウロが憐れみを受けました(13・16節)。パウロの回心は人が主から受ける恵みがどれほど豊かであるかのしるしです。神の教会を迫害したパウロが恵みを受けたのであれば、誰もが恵みを受けることができるはずです。どんな罪人も「主の恵みが与えられ、救われる」(14−15節)ことを示すために、パウロは呼び出されました。それがパウロの使徒としての「務め」です(12節)。
 パウロは、神がイエスを通して恵みを与えることを示す格好の見本です。キリストは人の救いを願ってどこまでも忍耐し、あふれる恵みを与えたこと、また信じる者はキリストの愛を映す生き方に招かれていること、それをパウロの生涯は証ししています(16節)。

 福音:神は失われたものを
   見つけ出して喜ぶ
   (ルカ15章1−10節)

 イエスは徴税人ザアカイの物語(ルカ19章1−10節)の結びで、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と述べています。ルカは「失われた羊」のたとえの後に、それと対(つい)をなす「失われた銀貨」のたとえを加えることによって、失われたもの(=神から離れた罪人)を見つけ出したときの神の喜びをいっそう強調しています。
 この神の喜びは、「悔い改める一人の罪人については……大きな喜びが天にある」(7節)、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)とあるように、罪人の「悔い改め」から生じます。しかし、ここでの悔い改めは「善行をおこなって神に赦しを願う」といった人間の努力を強調してはいません。というのは、捜し回るのは羊でも銀貨でもなく、それらの持ち主だからです。とするなら、ここでの「悔い改め」とは、失われたものを捜し回り、見つけ出す神に気づき、神の喜びに触れた者の反応だと言えます。罪人が悔い改めるより前に、神が捜しています。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「罪の赦し」です。今日の第二朗読によれば、パウロが「神を冒涜する者」でありながら、神の憐れみ(赦し)を受けたのは、「信じていないとき知らずに行ったこと」だと神が認めたからであり、さらに彼を「手本」として、キリスト・イエスを信じて永遠の命を得ようとする人が現れるようにと考えたからです。
 ファリサイ派の人々はこの親心を理解できません。だから今日の福音は、一匹の「徴税人や罪人」に向けて語られたのでありません。むしろ九十九匹の「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向けて語られたのです。そこで求められているのは、九十九匹の羊に、羊飼いの心を分かってほしい、ということです。なぜなら、私たちに今があるのは、何度も後悔して思い直し(第一朗読)、捜し回って見つけ出して喜ぶ神(福音)がいるからです。
 回心する、悔い改めるとは、神のもとに帰ることよりも、迷子になっている私たちを捜しに来てくれた神を受け入れることです。洗礼を受けてキリスト者になるのは、今後決して迷子にはならないという条件付きでなるのではありません。逆に洗礼を受けても人生の道に度々迷うことがあるからこそ、捜し回る神があらわれて赦し迎え入れてくださるのです。
 今日の福音には、「一緒に喜ぶ」という言葉が繰り返されます(6・9節)。イエスは罪人を迎えて「一緒」にいます(2節)。私たちはミサにあずかるたびに、一緒に喜びをもって神に感謝します。教会の一員として信仰共同体がますます「一緒に喜ぶ」集いとなるように、貢献する使命があります。なぜなら、教会は神に見つけ出された人たちの集まりだからです。
2022年9月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教