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この方は
すべての人の贖いとして
御自身を献げられました
―年間第25主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


第一朗読:
 神と共に働くことを忘れる
  (アモス8章4−7節)

 アモスはヤロブアム2世が治める北イスラエル王国で活動した預言者です。彼が活動した紀元前8世紀中頃、北イスラエルはアッシリアが弱体化したことに乗じて、その領土を北や東に拡大させることができたので、かつてない繁栄を享受する人たちが現れました。彼らはいっそう豊かになろうとして、利潤追求に血眼になりました。アモスは、金持ちは「貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける」(4節)と、彼らのゆがみを批判します。
 アモスが痛烈に批判する商人たちは、「安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ」(5節)とつぶやいていますから、彼らにとって、安息日はあってほしくない、迷惑な一日です。安息日も仕事をしたいと熱望するほどに商売熱心な彼らにとって、仕事は神と共に働く時間ではなくなり、むしろごまかして、利潤を追求するための場となっています。
 もっと儲けて豊かになりたいという心がいったん燃え上がると、止めどもなく広がり、ごまかしへとのめり込んでゆきます。まずは良心が痛まない程度に、エファ升を小さくし、分銅を大きくします(5節)。そうすると、確実に儲けが増えますから、それが良心を麻痺させ、利益を増やす別の手段をとるのも怖くなくなります。こうして、分量をごまかすだけでは終わらず、商品の内容にまで手を出し、増収を図ります。さらに「靴一足」ほどの微々たる債務(さいむ)を返せない者を奴隷として売り買いして儲けることも、また商品を偽って「くず麦」を買わせることも平気になります(6節)。
 七日目(安息日)に仕事をしないのは、天地創造であれ、出エジプトであれ、神が行った業を思い起こして、残りの六日間を神と共に働くためです。六日間の労働を真の労働とするために七日目に「仕事をしない」ことにします。それを怠れば、利益の誘惑に打ち勝てずに、利益中心に生き始めてしまいます。

第二朗読:
 祈りをすべての人々のために
  ささげなさい
  (汽謄皀2章1−8節)

 第二朗読は、キリスト者は「すべての人々のために」祈りをささげるのだから、王たちのためにも祈るようにと勧めます。それはキリスト者が「平穏で落ち着いた生活を送るため」です(1−2節)。
 「落ち着いた」と訳された語と同族の動詞は、ルカ23章56節bでは「(安息日に)休む」と用いられ、神に向かうことによって与えられる「静けさ」を表しています。また汽謄汽蹈縫4章11節では「落ち着いた生活をし、……自分の手で働くように努めなさい」と用いられています。テサロニケ教会には、主の来臨が近いのなら働く必要はないと考え、仕事を放棄する人がいましたが、そのような誤った終末理解を戒めるために、パウロは神への信頼を保つことによって得られる「落ち着きと静けさ」を求めています。だから、「平穏で落ち着いた生活」とは、神の思いに触れ、神の平和から来る静けさに満ちた生活のことです。
 神の思いとは「すべての人々が救われて真理を知るようになる」ことです(4節)。ですから、「すべての人々のために、感謝をささげる」なら(1−3節)、静けさを得ることができます。キリスト者が求める「静けさ」は迫害によって乱されないことというよりも、すべての人々の救いを望む神の平和に満たされた状態です。真の平和は神からもたらされます。神こそが「永遠の王」であり(汽謄皀1章17節)、地上の王は神の支配下にあるからです。

福音:
 富で友だちを作りなさい
  (ルカ16章1−13節)

 「不正な管理人」のたとえの解釈は大きく二つに分けることができます。
 (1) 伝統的な解釈によれば、管理人は自己保身のために主人のものをかすめ、負債の額をごまかしたのだから不正だとされます。主人がこの不正な管理人を8節で誉めたのは、不正な行為に対してではなく、身の危機に機敏に対応した「抜け目のない賢さ」を誉めたと説明されます。この解釈によれば、たとえの適用は8節後半であり、終末が差し迫る今、光の子(つまりキリストを信じる者)も機敏な対応を選び取る「賢さ」を持たねばならないと教えており、9節は後から加えた解釈だとされます。
 (2) 別の解釈では、管理人は負債額に上乗せられていた利息分を差し引いたのであり、不正どころか、利息を禁じた律法に立ち帰ったのである、と説明されます。負債者は喜び、管理人は掟どおりに振る舞い、人々は主人の寛大さを賞賛するでしょうから、主人も管理人を誉めざるをえません。この場合は、8節後半というより、9節がたとえの意味を明かす部分になります。
 4節後半と9節後半の対応関係から言って、「友だちを作るために富を使い、迎え入れてくれる場所を確保すべきだ」ということが、たとえが教える要点になります。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは、富は神から人間にゆだねられているものであるから、その活用を図り、乱用してはならない、ということです。第一朗読では、権力を利用して貧しい人々を圧迫する王や富んだ人々に対する厳しい宣告(アモス8章7節)が神自身から下されるという箇所です。福音は、いわゆる「不正な管理人」のたとえとそれに続く勧告です。
 今日の福音11−12節では、「不正にまみれた富(この世の富のこと)」を神に信用されてまかせられた人がそれを善用して本当に価値あるものをまかせられるようになりなさいと勧め、そして最後にこの世の富に仕えるという態度は、神への奉仕と両立できないと断言しています(13節)。イエスはすべての人の贖いとして御自身を献げられました(汽謄皀2章6節)。地上の富(この世の富)は、神の富(天の宝)に比べたら、「ごく小さなもの」(10節)、「他人のもの」(12節)です。私たちはイエスに倣って愛の犠牲によってこれを神に返し、本当に価値ある「天の宝」を作ることを、今日の福音は勧めているのです。
2022年9月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教