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もし、モーセと預言者に
耳を傾けないのなら、
たとえ死者の中から
生き返る者があっても、
その言うことを
聞き入れはしないだろう
―年間第26主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  ヨセフの破滅に
  心を痛めることがない
  (アモス6章1a・4−7節)

 アモスが活動したのは北イスラエル王ヤロブアム2世の時代です。この王は、北の強国アッシリアの国力が弱くなり、パレスチナの地に力を発揮できなくなった間隙(かんげき)を衝いて(ついて)、支配領域をほぼソロモン王の時代に匹敵する広さに回復させました(列王記下14章25節)。ティグリス・ユウフラテス川のほとりまでを支配下に置くことができましたから、通行税や貿易収入などの富をもたらし、贅沢な生活をする人々が現れました。
 「サマリアの山で安脱をむさぶる者」(1節a)たちのように贅沢な生活ができるのは、少数の上流階級に限られています。多くの貧しい者は、さらに富を増やそうと躍起になる彼らに踏みつけられ、苦しみの声をあげていますが、欲望に膨らませた彼らの耳は鈍感になり、それを聞くことができません。
 アモスはその無関心さを指摘して、「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない」(6節)と嘆きます。ここで「破滅」と訳された言葉は、レビ記21章19節「手足の折れた者=手に骨折のある、あるいは足に骨折のある者」では、「骨折」の意味に使われています。ここでのヨセフはイスラエルのことですから、イスラエル社会が骨折を起こし、金持ちと貧しい者とに分解しているのに、それに痛みを覚えない鈍感さが非難されています。
 快適な生活に目を奪われ、「社会の骨折」に気づかない者は、「捕囚の列の先頭を行くことになる」(7節)とアモスは戒めます。

 第二朗読:信仰の戦い
  (汽謄皀6章11−16節)

 第二朗読の前には、キリストの健全な言葉や信心に基づく教えに従わない異端は、高慢で、ねたみや争いが絶えず、信心を利得の道と考え、金持ちになろうとする者であると批判されています。金銭の欲はすべての悪の根であり、異端に通じるものであると述べます(汽謄皀6章3−10節)。今日の第二朗読は、「あなたはこれらのこと(=異端と金銭の欲)を避けなさい」(11節)というテモテへの警告で始まります。
 金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て破滅に陥る人々の生き方を「避け」、全く逆の正義や愛を「追い求め」なければならない(11節)。そのような生き方は、12節では「信仰の戦い」と表現されています。「信仰の戦い」とは、「信仰が行う戦い」であり、この戦いは、正義や愛を求める者が、異端や金銭の欲を大切にする生き方に対して行う戦いのことです。この戦いを立派に戦い抜くなら、「永遠の命を手に入れる」ことができると教えています(12節)。

 福音:大きな淵=裂け目
  (ルカ16章19−31節)

 貧しい人ラザロが横たわっていたのは金持ちの門前です(20節)。門は家の中と外とをつなぐ入口ですが、金持ちはそこにいるラザロには目を向けません。ラザロの目から見れば、金持ちの家の門は渡って入ることも誰かが越えて来ることもない「大きな淵(直訳 裂け目)」になっています。
 金持ちは死んで盛大な葬式によって葬られたと思われますが、ラザロは墓に葬られもせず、「天使たちによって連れて行かれ」ました。ラザロが運ばれたところは、原文によれば「アブラハムの胸」です。それは、胸に抱かれる子どもの平安を表すと同時に、天の祝宴での最高の席を表しています(22節)。一方、金持ちは陰府に下り、「炎の中で」もだえ苦しんでいます。彼はアブラハムに助けを求めますが、「裂け目」があって、行き来はできない、と断られてしまいます(23−26節)。この「裂け目」は、生前、金持ちが貧しい人に作っていた「裂け目」の反映です。彼が貧しい人と関わりを持つことによって、「裂け目」を作り出していなかったら、陰府で苦しむこともなかったに違いありません。
 この世を生きる人間が築く、目に見えない「裂け目」はもうひとつあります。陰府とアブラハムとの間に越えることのできない「裂け目」があると知った彼は、せめて兄弟にはこの苦しみを体験させたくないと思い、ラザロをよみがえらせて世に遣わし、兄弟を戒めて欲しいと頼みます(27−28節)。彼らには「モーセと預言者(=旧約聖書)」があると言われてしまいますが、死者の復活があれば悔い改めるでしょう、と食い下がります(29−30節)。
 しかし、アブラハムは取り合おうとはしません。アブラハムは金持ちの兄弟が神に対して作る「裂け目」の存在に気づいています。それは神の言葉を聞くことができないという「裂け目」です。この「裂け目」を作り上げている限り、死者の復活という出来事も力を発揮することができません。なぜなら、神に心を閉じているからです(31節)。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは、先週と同じく「富」の問題です。聖書では、富は神から人間にゆだねられているものです。第一朗読でアモスが批判の目を向けるのは、ぜいたくな生活そのものというよりも、むしろ快適な生活を求めるという生き方が社会に「骨折」(アモス6章6節 ヨセフの破滅)をもたらし、結局はバビロン捕囚(7節)という滅びにつながってしまうということです。豊かさの中で神を忘れることが隣人を忘れさせ、滅びを招きます。
 一方、第二朗読で述べられた全く逆の正義や愛を「追い求め」る(汽謄皀6章11節)生き方は、今は快適さを犠牲にしなければなりませんが、「アブラハムの胸」(ルカ16章22節)に抱かれながら、神の国の宴会を楽しむことになります。
 この二つの生き方には、渡ることのできない「裂け目」があるように離れています。快適な生活の追求は目に見えるだけに、人の心を捕らえます。それに打ち勝つには、「モーセと預言者」に耳を傾けることが不可欠だとイエスは教えています(ルカ16章29・31節)。
2022年9月25日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教