印刷など用にWordファイルでダウンロードしたい方はこちら


もしあなたがたに
からし種一粒ほどの
信仰があれば……
―年間第27主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  今日を信仰によって生きる
  (ハバクク1章
   2−3節、2章2−4節)

 ハバクク書の1章6節に「冷酷で剽悍(ひょうかん)な国民」で、「地上の広い領域に軍を進める」ことになる「カルデア人」が登場しますが、これは新バビロニア帝国を指します。とすれば、ハバククは新バビロニア帝国が勃興(ぼっこう)する紀元前7世紀の終わり頃に南ユダ王国で預言活動を行ったことになります。
 今日の朗読の前半部(1章2−3節)では、「主よ」という呼びかけで始まり、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」、「どうして(=なぜ)、あなたはわたしに災いを見させるのか」と問いかけています。「暴虐と不法」がハバククの目の前にあり、「争い」や「いさかい」が起こっているのに、神は沈黙しているからです。
 神は無力なゆえに沈黙しているのではありません。今日の朗読の後半部(2章2−4節)では、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」とありますから、神はちょうどよい時を待っているのです。そのときには、「高慢な者」の見込み違いが明らかにされます。だから、「神に従う人」は「今日を信仰によって生きる」という道を選ぶべきです。

 第二朗読:
  神の賜物を燃え立たせる
  (競謄皀1章
   6−8・13−14節)

 司牧に疲れたテモテが自分の職務を果たすためには、神の力に目を向けなければなりません。そこでパウロは、テモテが受けた「神の賜物」は「ゆだねられている良いもの」であり、彼の内に住む「聖霊」がそれを守ると諭します。神はテモテに「力と愛と思慮分別の霊」を与えているのですから、「神の賜物を再び燃え立たせる」ことができるはずです。
 パウロが「神の賜物を再び燃え立たせるように」とテモテに勧めたのは、エフェソ教会を教え導かなければならないテモテが若さゆえに軽く見られ、さまざまな困難に怖じ気(おじけ)づいていたからです。神から受けた賜物に気づき、そこに目を向けることが、私たちに生きる力を与えます。

 福音朗読:
  からし種のような信仰
 (ルカ17章5−10節)

 「信仰を増してください」(5節)と求める使徒たちに対して、イエスは「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)と答えます。からし種は最小とされる種でありながら、成長すると3メートルにもなることがあります。イエスは信仰をからし種にたとえていますから、信仰が小から大へと成長することを否定していません。しかし、成長すべき信仰が「真の信仰」でなければ、意味がないばかりか、むしろ有害です。信仰が真の信仰となっていれば、たとえ「からし種のような」小ささであっても、信じられないほどの力を発揮します。
 パウロは汽灰螢鵐13章2節で「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ……」と述べているように、信仰が「真の信仰」であることのしるしは愛です。
 10節の「しなければならないことをしただけです」の直訳は、「おこなうことを私たちが負っている」という表現です。ここで「負っている」と訳された語(オフェイロー)はローマ書13章8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りはあってはなりません」にも使われています。ローマ書13章8節は、隣人愛を神から受けた愛への応答とみなしており、隣人を懸命に愛することによって神の愛に応えようとしても、どうしても借りが残ってしまうほどに神からの愛は大きい、という意味だと思います。このような見方を今日の福音に適用すれば、キリスト者の奉仕は、イエスを通して示された神からの愛への応答なのであり、神から奉仕の見返りを期待すべきではなく、「しなければならないことをしただけです」と言うのは当然だと教えているのです。

 今日の朗読のまとめ
 新共同訳は、ルカ福音書17章1−10節を一つの段落として扱い、「赦し、信仰、奉仕」という表題をつけています。1−4節は「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」で終わっているので、「赦し」をテーマにしていると言えるし、今日の福音となる5−6節は「信仰」を、さらに7−10節は「奉仕」をテーマにしています。
 「兄弟が犯した罪の赦し」も「奉仕」も対人関係におけるキリスト者の態度ですが、「信仰」は神との関係における態度です。この「信仰」が中心となるように配列したのは、「兄弟が犯した罪の赦し」も「奉仕」も、「信仰」という神への態度を土台としなければならないからです。キリスト者は相手の罪を赦し、相手に奉仕しなければなりませんが、神がキリストを通して行った業に対する信仰がなければ、ゆがんだものになってしまいます。
 イエスは今日の福音の5−6節で、信仰を増してほしいと願った使徒たちに「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と答えています。ルカは、「兄弟が犯した罪の赦し」、「信仰」、「奉仕」という三つのテーマの配列順から考えると、兄弟が犯した罪を赦すためには、桑の木を海に動かす信仰の威力にすがらなければ不可能だと考えていることがわかります。
 他人の罪を赦したほうがよいと誰もが考えますが、一日で七回であれ、兄弟を赦せ、という指示は実行不可能です。しかし、イエスの十字架によって私たちの罪が完全に赦されていると信じる信仰をもてるなら、その信仰が私たちを赦しへと運んでゆきます。
 聖書の述べる「今日」は、「昨日と明日の中間の日」のことだけでなく、「神の約束が成就する日」を表します。神から受けた賜物に気づき、そこに目を向け、「今日」神に愛されている、「今日」神に赦されている、という「今日を信仰によって生きる人」は幸いです。
2022年10月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教