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この外国人のほかに、
神を賛美するために
戻って来た者はいないのか
―年間第28主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  神の人の言葉どおり
  (列王記下5章14−17節)

 ナアマンはアラム軍の司令官であり、ユダヤ人ではありません。重い皮膚病にかかって苦しんでいましたが、イスラエルから捕虜として連れて来た召し使いの少女から神の人エリシャのことを聞き、彼のもとに向かいました。
 ナアマンがエリシャの家の入り口に到着すると、エリシャは会おうともせず、人づてに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と指示します。ナアマンはエリシャの態度に腹を立て、ダマスコに帰ろうとしました。
 ナアマンはエリシャが迎えに出て、いやしのために、主の名を呼び、患部の上で手を動かすと思い込んでいました。彼は、「ダマスコにはヨルダン川よりもきれいな川がある」と不平を口にします。しかし、家来にいさめられ、ヨルダン川に下って行き、七度身を浸すと、彼の体は元に戻り、小さな子どもの体のように、清くなります(14節)。
 エリシャの態度は明らかに非礼です。しかし、ナアマンがエリシャの指示通りに振る舞うと、ナアマンはエリシャの偉大さに心が釘付けにされてしまいます。ナアマンをいやしたのは、エリシャではなく、神です。それを知らせるために、エリシャはナアマンの前に姿を見せることなく、神の言葉にのみ注目をさせようとしたのかもしれません。

 第二朗読:
  キリストと共に
  (競謄皀2章8−13節)

 テモテはエフェソ教会の指導者に任じられていますが、汽謄皀4章12節によれば、「年が若いということで」軽んじられることもあったようです。獄中で「鎖につながれている」パウロは、弟子のテモテを励ますために、「イエス・キリストを思い起こしなさい」と命じ、キリストは「死者の中から復活した」という福音に身を合わせるように求めます。
 11節以下は、当時の教会が歌っていた賛歌の引用だと思います。この賛歌は「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる……キリストと共に支配するようになる」と訳されていますが、原文にキリストは一度も現れません。キリストは補われた言葉です。だから、共に生き、共に死に、支配する相手はキリストだけではないかも知れません。むしろ、キリストを信じる「すべての者」が含まれていると考えたほうが文脈によく合うように思います。私たちは確かに「キリストと共に」死んで、生き、支配することを望んでいます。しかし、パウロが「耐え忍ぶ」のは、キリストによって神の恵みを知る「すべての者」と共に死に、共に生き、共に支配するためです。
 キリストと共にあるなら、信じるすべての者と共に救いを得ることができます。このことを「思い起こさせる」という務めをテモテは担います。思い起こすのは、イエスの生涯から生きる力と励ましを受けるためです。職務の重圧に苦しむテモテにこの賛歌を示したのは、「キリストと共にある」という確信こそが福音を宣べ伝える力となるからです。

 福音朗読:
  いやされたのを知る
  (ルカ17章11−19節)

 今日の福音には、重い皮膚病を患っていた十人の人が登場します。公生活の冒頭、異邦人ナアマンのいやし(今日の第一朗読)について言及したイエスは(ルカ4章27節)、洗礼者ヨハネの使者に向かって、このような人がいやされることが神の国の到来のしるしであることを力強く宣言します。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。……重い皮膚病を患っている人は清くなり、……貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ14章22節)。
 今日の福音では、重い皮膚病を患っている十人の人がイエスを出迎え、「憐れんでください」と叫びます。イエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と応えます。イエスの言葉に従って出て行った人々は、その途中で患部が「清くされた」ことを知ります(12−14節)。そして、「その中の一人」は、神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝しました(15−16節)。そのきっかけは、いやされたのを「知った」ことにありました。ここで「知る」と訳された語は、原文では「見る」という言葉が使われています。
 その一人が「見た」ものとは、清くされた患部の向こう側に働く神の憐れみです。彼は「清くされた」だけでなく、「いやされたこと」をも見たのです(15節)。「いやされた」とは、「清くされる」ことを通して、招き入れられた神との交わりに生きることです。この人だけがイエスのうちに神の国の到来を認めたのです。
 イエスが「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(18節)と言ったのは、残りのユダヤ人を非難するためではなく、神の国の入り口に立っている彼らをも神との交わりへと招き入れるためでした。
 信仰とは清くされた患部の向こう側に働く神の憐れみを見る目であり、その目によって神との交わりに気づくことができます。だから、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と外国人に述べたのです(19節)。

 今日の朗読のまとめ
 イエス・キリストは「ダビデの子孫で、死者の中から復活された」(第二朗読)。「復活された」は完了形なので、単に復活の出来事を述べるだけでなく、イエスは今も生きている復活の主であり、その命を与えることのできる方であることを示しています。つまり、復活信仰の重点は、死者がムクムクと起き上がったことではなく、「イエスはいま私たちと共にいる」というところにあります。また、第二朗読は、イエス・キリストのことを「思い起こしなさい」と命じます。思い起こすのは、イエスの言葉(神の人の言葉)から生きる力と励ましを受けるためです。イエスを通して出来事の向こう側に働く神のみ旨を信仰の目によって見つめ、キリストを信じるすべての人々と共に神との交わりに生きてゆきましょう。
2022年10月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教