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気を落とさずに
絶えず祈らなければならない
ことを教えるために
―年間第29主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  アマレクとの戦い
  (出エジプト17章8−13節)

 今日の朗読に登場するアマレクは、パレスチナの南端部やシナイ半島の東端部を拠点としていた遊牧民であり、サムエル記上30章14節から考え、略奪を繰り返していたと思われます。春になると、大集団で定住民が住んでいる所へ襲来し、芽を出したばかりの穀物を家畜に食べさせ、定住民の家畜や作物を奪い取って、またたくまに姿を消す略奪者であり、定住民を不安に陥れる人たちでした。
 定住する以前のイスラエルは半遊牧民として定住地と荒れ野の境目に住んでいました。一方、アマレクは定住地からさらに離れた荒れ野に住んでいたので、数の少ない泉や遊牧地をめぐって争いが絶えなかったに違いありません。こうしてアマレクは常にイスラエルの敵として聖書に登場します。
 アマレクとの戦いで、戦場に出て、民を実際に指揮するのはヨシュアであり、モーセは「神の杖」を手に持って丘の頂に立っています(9節)。戦いは激しく、アロンとフルは石を持って来て、モーセを座らせ、彼らはモーセの手を支え、アマレクをやっと打ち破ることができました(12−13節)。
 このような模写は、上げられたモーセの手を通して働く神の力を強調していると思われます。しかし、今日の朗読に続く14節に「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」とあります。この言葉は申命記25章19節にも見られます。現在までのところ、アマレクについて述べる資料は聖書以外には見当たりません。しかも、アマレクはダビデ以降のイスラエルにとって脅威ではなくなり、もはや聖書には登場しなくなります。申命記の成立はアマレクが聖書の記述から消え去るダビデ以降であるのは明らかです。そうであれば、申命記はなぜ、アマレクの滅びに言及するのでしょうか。
 これに加えて、聖書に登場するアマレクは必ず敵であることを考えると、申命記25章19節「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らなければならない」という表現のアマレクは、史実のアマレクではなく、「神が求める秩序を破壊する民(=神に敵対する残酷な民)」の象徴なのかもしれません。アマレクの滅びを語ることによって、神が求める秩序を破壊する者が歩む運命を教えています。しかし、それは同時に、勝利は神から来ることをイスラエルが忘れないための出来事でもあるのです。

 第二朗読:
  確信から離れない者のために
  (競謄皀3章14節−4章2節)

 この手紙は「俗悪な無駄話」(2章16節)や「愚かで無知な議論」(2章23節)を避けるように命じています。このような話をする者は「真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆している」からです(2章18節)。誤った教えとは真理(神の思い)ではなく、「自分に都合の良いこと」を聞かせるものです(4章3節)。
 今日の朗読は、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」で始まり、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」で終わっています。確信したことから離れない(=イエスの言葉や信仰に忠実であり続ける)ことが、教会の混乱をなくす唯一の道かも知れません。

 福音朗読:
  昼も夜も叫び求める
  (ルカ18章1−18節)

 「神を畏れない人」というのは、旧約では神に敵対し、最も非道で冷酷な人を指します。「人を人とも思わない」(直訳では「人を敬わない」)は、人の陰口を怖れないこと。「やもめ」は、結婚年齢が早かった当時にあっては、かなり若い世代の人もいました。やもめがあまりに執拗に願うので、さすがの不正な裁判官もかぶとをぬぎます。「うるさくてかなわない」は、直訳では「目の下の部分をなぐる」で、目から火が出るほど打たれることを意味します。この不正な裁判官をノック・アウトする唯一の手段は執拗に願うことで、この婦人はこの武器を使ったのです(2−5節)。イエスはこの点を見習うようにと勧めます。それはことばを換えて言えば、「気を落とさずに絶えず祈る」です(1節)。
 「昼も夜も叫び求めている」(7節)は「絶えず祈らなければならない」と同じ意味です。「昼も夜も」は「絶えず」の言い換えですし、神に向けた「叫び」は祈りだからです。いつも祈る者は神に「選ばれた者」であり、神は彼らのために裁きを必ず、速やかに行います。
 イエスは「人の子が来るとき、果たして信仰が見いだすだろうか」と危惧しています(8節)。信仰は神の働きを見させる力ですから、信仰がなくなれば、神の働きも忘れられ、祈りもなくなります。キリスト者とは、この世にありながら神と関わって生きる者です。その特徴は「気を落とさずに絶えず祈る」ことにあります。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「祈り」です。第一朗読の「アマレク」は、ダビデ以降になると、「神が求める秩序を破壊する民」というシンボリックな意味を持ちます。神が求める秩序を中心にすえる信仰から考えれば、それを破壊する人(=アマレク)は排除されねばなりません。しかし、その場合、人間の願望のためではなく、「神の思い」でなければならないはずです。それを忘れるなら、神を利用する「神の民」に堕落することになります。神の前に常に謙虚な祈りをささげなければ、「神の民」とはいえない集団に成り下がってしまいます。
 第二朗読は、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(競謄皀3章14節)で始まります。福音では、人の子が来るとき、「確信から離れない者」が残っているかどうかをイエスは危惧しています(ルカ18章8節)。そのためにキリスト者は「気を落とさずに絶えず祈る」ことが不可欠なのです(ルカ18章1節)。
2022年10月16日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教