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義とされて家に帰ったのは、
徴税人であって、
あのファリサイ派の人ではない
―年間第30主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  謙虚な人の祈りは雲を突き抜け
  (シラ35章15b−17節・20−22節a)

 シラ書が書かれたのは、エジプトのプトレマイオス朝からシリアのセレウコス朝へと支配者が変わった直後、紀元前190年頃と推測されています。ですから、第一朗読を読むにあたっては、異邦人支配者の交代という状況を思い起こすべきです。例えば、シラ35章14−15節「主にわいろを贈ろうなどとするな……不正ないけにえを頼みとするな……」の背後には、新しい異邦人支配者に取り入ろうとして、「わいろ」や「不正行為」がまかり通る社会情勢が見え隠れしています。
 このような社会にあって、神は「御旨に従って主に仕える人……謙虚な人……正しい人々」のために必ず介入するのであり(20−22節a)、このような人こそ神にとって「御自分の民」なのだ、とシラ書は訴えます。
 「雲」(20・21節)は神の住まいを表します。原文では20−25節まで、不変化詞ヘオース(……まで)が繰り返されており、虐げられている者の祈りを聞き入れ、正義を回復する神の確かさを強調しています。16節の「虐げられている者」は動詞アディケオーの受動分詞で「不正を被っている(かぶっている)者」の意味です。虐げられた者を慰めるのは神であるので、「それが主に届くまで」と述べ、その慰めは正義の回復となって現れるので、「正義を行われるときまで」と書いています。シラ書が著された2世紀のユダヤは、他国によって虐げられていました。その中で、主への信頼を説いています。だから、「御旨に従って主に仕える人、謙虚な人、正しい人々」であっても、その祈りが主に届くまで祈り続けます。

 第二朗読:
  主はわたしのそばにいて
  (競謄皀4章6−8節・10−18節)

 16節に、最初の弁明のときは、「だれも助けてくれず」とありますが、これを直訳すると、「誰も私のために傍らに立たなかった」となり、著者の孤独が強調されています。しかし、主は「(彼の)そばにいて」、力づけました。「そばにいて」の直訳は「そばに立つ」です。だれ一人彼の傍らに立つ者がいないときにも、「主はそばにいて(立ち)、力づけ」獅子の口からも救い出しました(17節)。
 過去に「救われた」という体験があるからこそ、未来にも「主が助け出す」という確信をもつことができます(18節)。著者が心静かに死の時を迎えることができるのは、やるべきことを果たしたという満足感と、どんな時にも、たとえ死の時にも「主がそばにいて、力づけてくださる」という確信があるからです。
 ※伝統的な解釈では、この手紙の著者はパウロであり、すでに一度ローマに監禁され(使徒言行録28章16節・20節)、釈放されたのち、今また獄中からこの手紙を書いていると見ています。しかし、現在ではこの手紙はパウロの思想を受け継ぐ者によって書かれているとする説が有力です。

 福音朗読:
  「〜にもかかわらず」
  (ルカ18章9−14節)

 律法によって規定されている公の断食は、年一回贖罪の日だけです(レビ記16章29節)。しかし、「ファリサイ派の人々」は、モーセがシナイ山に登った木曜日と下山した月曜日に断食を実行していました。また、ファリサイ派は律法に規定のない農作物についても十分の一を献げていました(マタイ23章23節、ルカ11章42節)。ファリサイ派の人の祈りの内容(11−12節)からうかがえるのは、彼は熱心なユダヤ教信者であり、自分に忠実であろうとした人だということです。にもかかわらず、彼の祈りは神から義とされませんでした。
 「徴税人」は、異邦人であるローマ帝国のために働くばかりでなく、勝手に値段をつけ、ローマ帝国に割り当てられた以上の税金を取り立て、金を貯めるという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」と同様に見なされていました。にもかかわらず、彼の祈りは神から義とされました。今日の福音において、両者が受けたものは「〜にもかかわらず」なのであって、「〜だから」ではないのです。

 今日の朗読のまとめ
 今日の朗読のテーマは「貧しい人の祈り」です。福音で朗読される「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえでは、祈りが「謙虚な心」(第一朗読)と「確信」(第二朗読)をもってなされ、神の憐れみに生かされているものでなければならないということを教えています。
 ファリサイ派の人の祈りの内容は、「神さま、わたしはほかの人のように……また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」ということです(11節)。まず、自分というものをはっきり確立させようとします。その確立の方法は、他の人間との比較からなされます。そして次に自分で、「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げて」といろいろ数え上げます(12節)。自分は正しい人間であることを確認します。そして、ありがとうございましたと言います(11節)。なにを信じているのかと言えば、結局自分を信じています。
 9節の「うぬぼれる」の直訳は「自分自身を頼りにする(ペイソー)」です。イエスがファリサイ派の人を非難したのは、「自分は優れているとうぬぼれた」ことよりも、「神を信頼せずに(謙虚な心ではなく)、自分自身を頼って祈った」ことにあります。
 他方、徴税人は、目を上げることができず、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました(13節)。で、イエスの言葉です。「義とされて家に帰ったのは、(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と(14節)。神に対する祈りは、自分というものをまったく立てずに、神に信頼を置いて、神だけに向かうことしかありません。つまり、自分の「義(正しさ)」を中心に置く人ではなく、自分の「罪」の上に神の憐れみを置く人こそ、神に認められるのです。「心の中で自分が罪人だとみなさなければ、神はその人の祈りをお聞き入れにならない」と、ある砂漠の師父は言います。
2022年10月23日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教