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人の子は、
失われたものを捜して
救うために来たのである
―年間第31主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  あなたはすべてをいとおしまれる
  (知恵の書11章22節−12章2節)

 知恵の書が著されたと思われる紀元前1世紀前半は、シリアのセレウコス朝の支配から独立を勝ち取ったハスモン家がユダヤを統治した時代です。しかし、この時代は周辺諸国との争いに加え、国内の権力抗争の激しい時代であり、しかもファリサイ派の台頭によっていっそう複雑になり、紀元前63年にはローマに征服されてしまい、ローマの属州に編入されました。
 権力者がめまぐるしく変わる不安定な時代ですから、今日の朗読の直後にあるように、「魔術の業や神を汚す儀式を行う者、無慈悲にも子を殺す者、血をすすり人肉や内臓を食べる宴(えん)を開く者、踊り狂う秘密の教団に入門し、かよわいわが子の命を奪う親たち」(12章4−6節)が現れても、不思議ではありません。伝統的な信仰観を揺るがすような現実を目にした人々は動揺し、神への信仰に疑問を投げかける人も現れたに違いありません。
 そこで、「知恵の書」の著者は、神の忍耐を強調しています。「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ回心させようとして人々の罪を見過ごされるあなたは存在するものすべてを愛し、……」(11章23−24節)。神の力と愛に基づく忍耐が回心へと招くことを教えて、紀元前1世紀の混乱におびえる人々に信仰を訴えています。
 今日の朗読の26節では「あなたはすべてをいとおしむ」と述べます。「いとおしむ(フェイドマイ)」という語はまず、「差し控える・寛大に扱う」ことを表しますが、さらに「惜しむ・いとおしむ」といった積極的な態度をも表します。12章8節では、「しかしあの者たちも人間であるということで、あなたは彼らをいとおしまれ、あなたの軍隊の先駆けとして熊蜂(くまばち)を送られた」と述べています。文脈から考えて「刑罰を差し控え、寛大に扱う」といった意味かもしれません。神は悪人を直ちに滅ぼそうとはせず、寛大に扱っているのは「あなたは存在するものすべてを愛する」(11章24節)方だからです。
 価値観が揺らぎ、混沌と見える世は、神の無力さのしるしなのではなく、むしろ存在するすべてを「いとおしまれる」神の愛のしるしなのです。

 第二朗読:パウロの祈り
  (競謄汽蹈縫1章11節−2章2節)

 この手紙はパウロ自身によるものであるという見方もありますが、大方(おおかた)は、パウロの思想を受け継ぐ者によって書かれたと見ています。おそらく、「主の日(終末の日)」について、第一の手紙の教えを誤解した人々があり、その誤りを正すために書かれたと考えられています。今日の朗読は、そのような誤った教えに惑わされないようにと警告していますが(2章1−2節)、そのためにテサロニケ教会の人々のために祈ることから始められます(1章11−12節)。
 テサロニケ教会の人々は、「迫害と苦難の中」にありますが、その中で彼らが愛を豊かにし、忍耐と信仰を示すことができるのは、現在の苦しみは終末の日に神の国に入ることのしるしであるという確信に支えられているからです(1章3−5節)。その確信をさらに強めることができるように、パウロは彼らのために「神のいつくしみ」を祈ります。

 福音朗読:
  神が決めた「その場所」と「今日」
  (ルカ19章1−10節)

 ザアカイは「徴税人の頭(かしら)」でした。当時、人頭税と土地所有税の徴収は、通常由緒ある家柄から選ばれた官吏(かんり)がこれにあたっていましたが、一地区の徴税(地方の徴税)の徴収は、この権利を最大額で競り落とした(せりおとした)徴税請負人が、いわゆる「徴税人」を通してこれに当たっていました。ですから規定以上の(ルカ3章12節)徴税をするようになっていました。ザアカイはおそらくエリコ地方の税を取り立てる徴税請負人で、ユダヤ人から言わせれば、まさに売国奴であり、盗賊の頭だったのです。そのうえザアカイは「金持ち」でした。イエスが前章で「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(18章24−25節)と言っている当(とう)の「金持ち」でした。
 イエスを見たいと思ったザアカイは、人込みに遮られて見えないことを知ると、「走って先回りし」、ついに道端のいちじく桑の木に登ります。3節の「見ようとした」という表現は、原文では「見ることを捜していた」となります。漠然とではあれ、ザアカイは救い主を求めていたのです。
 イエスはそのいちじく桑の木の下、「その場所」に来て、公民権さえ与えられずに、神の祝福から除外されているとみなされていたその人に向かって呼びかけます。「その場所」という語には冠詞がついています。この場所はイエスとザアカイの出会いの場所として、神によってあらかじめ決められていた所です。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの呼びかけに、ザアカイはすぐに従います(5節)。この「今日」は、昨日と明日にはさまれた平凡な一日を指すのではありません。「今日という今日」、すなわち待ちに待った特別な日です。「泊まりたい」というイエスの言葉は、直訳すると「留まることになっている」です。この出会いは神の意思による必然性をもった出来事です。

 今日の朗読のまとめ
 今日のテーマは「すべての人に及ぶ神のいつくしみ」です。いつくしみはすべての人に限りない愛のまなざしを注いでくださる神の働きを表しています。第一朗読はそのことを美しく歌っています。イエスは「失われたものを捜して救うために来たのである」と自分の使命を語ります(ルカ19章10節)。救いを捜すザアカイは、失われたものを捜す神と出会いました。救いを捜す人は、その人を捜す神と出会えます。そのそれぞれに「その場所」と「今日」があり、神のいつくしみによって、生き方の転換をもたらし、喜びに満たされます。
2022年10月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文序盤で「下線+斜字(イタリック)」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+斜字(イタリック)で代用させていただきました。ご容赦を。
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