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忍耐によって、
あなたがたは命をかち取りなさい
―年間第33主日C年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


1 黙示文学
 今日の福音は、イエスの時代に流行していた黙示文学の影響を受けています。黙示文学は、紀元前2世紀から紀元後2世紀の400年にわたって流行していました。この文学の特徴は、天体、天の軍勢、天使と悪魔の戦い、そういう神話的、宇宙論的なファンタジーやイメージを使っていることです。黙示文学の代表的なものとして、旧約聖書ではダニエル書、新約聖書ではヨハネの黙示録があります。
 イエスの時代の人々は、神の介入によって、イスラエルの秩序が回復され、この世界は完成され、そしてこの世界の終わりを迎えると思っていました。この世界が終わった後に来るのは神の支配する国です。だから、終末は裁きではなくて完成です。完成されたら、人々が喜び溢れる(あふれる)神の国が到来します。終末は、怖れることではなく、神を信じる者にとっては喜び・希望の時なのです。
 聖書の中で一番警戒されている終末的生き方は、終末は、「いつ来るのか」、「どこの場所に来るのか」を問題にすることです(ルカ21章7節)。だから、今日の福音のような黙示文学の影響を受けている聖書箇所を読むときは、終末に向けて、「今」を自分がどのように生きているのか、を語りかけ、回心することが求められています。終末のとき、主の御前にふさわしく立てるように、「今」を生きる。「今」の自分の生き方を回心することが大切です。

2 終末的生き方
 第一朗読:
  見よ、その日が来る
  (マラキ書3章19−20節a)

 マラキは紀元前5世紀前半の預言者です。紀元前515年にエルサレム神殿が再建されたのに、約束された栄光が来ません。人々は待ちくたびれ、信仰の熱意が冷め、自分の願望を中心に生きたほうが得ではないかという思いが大きな誘惑になっていました。
 一足先に自己中心に生き始めた人の幸いを目にして、人々は「高慢な者を幸いと呼ぼう」(3章15節)と考え始めていますが、神はそれに応えて、「高慢な者」がわらのように燃える日が来ると告知します。私たちが普通に「高慢な者」と言えば、「思い上がって人をあなどる者」といった意味であり、神との関係は問題になっていません。しかし、聖書では神との関係が重要であり、「神ではなく、自分の願望を中心に生きる人」のことです。そのような人は神の目に「悪を行う者」なのです(19節)。
 ですから、「高慢な者」の正反対の人が「わが名を畏れ敬う」人とされています。「高慢な者」がわらのように燃やされる日が来ますが、その同じ日に「神を畏れ敬う人」には「義の太陽」が昇ります(20節a)。ここでの「義」は救いを表しますから、この太陽には「いやす力」があります。神は翼(つばさ)のように広がる光線となって、神を待ち望む者を救いに招きます。
 マラキは確かに将来の「その日(終末の日)」について語りますが、その目的は現在をどのように生きるべきかを説くためです。「その日(終末の日)」の到来に目を向けるとき、なえやすい信仰心を奮い起こし(ふるいおこし)、神に従う生き方に留まることができます。

 第二朗読:
  落ち着いて仕事をしなさい
  (競謄汽蹈縫3章7−12節)

 テサロニケ教会に見られる「怠惰(たいだ)な生活をする」信徒は、ただの怠け者なのではなくて、それなりの信仰理解に基づいて、働かずに「余計なこと」をしていた人たちです(11節)。この人たちは、2章2節から考えると、「主の日(終末の日)は既に来た」と主張している人たちであって、主の日が来たからには、この世に関わる仕事に従事すべきではないと考えたに違いありません。彼らは主の日が遅れていることに苛立ち(いらだち)、わずかな徴(しるし)の中に、主の日の到来を無理に見て、この世の仕事どころではないと熱狂したのかもしれません。
 パウロは、主イエス・キリストに結ばれた者にふさわしい生活とは、「落ち着いて仕事をする」ことだと教えます(12節)。「だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労をして、働き続ける」(8節)ことができるのは、主の日の到来が遅れていても、その日が遅れていても、その日が必ず来ると確信しているからです。主の日が遅れているといって、浮足立つことがあってはなりません。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と命じるのは、それが神への信頼を表す確かな態度となるからです

 福音朗読:
  忍耐によって、命をかち取りなさい
  (ルカ21章5−19節)

 ルカ21章12−19節の迫害の預言では、迫害は痛ましい出来事としてではなく、むしろ神の保護を現すものとして描写されています。それは信じる者に寄せられる「髪の毛の一本も決してなくならない」ような神の保護です(18節)。信頼する者はどのような困難に出会っても、それに耐えることができますキリストを信じる者の「忍耐」は、歯を食いしばって頑張る自力からではなく、神に信頼して救いを待ち望むことからわき上がってきます
 聖書が終末を語るのは、おびえを抱かせるためではありません。キリストを信じる者の「忍耐」は、いっそう優れた「命」を獲得するための道となることを説くためです(10節)。

 今日の朗読のまとめ
 典礼暦が終わりに近づきますので、教会は終末、すなわち神の計画の完成についての、聖書の教えを私たちに読んで聞かせます。聖書の中に記されている「終末」は、現今ブームと呼んでいる「世の終わり」とはまったく異なっています。それは、まず終末に向けて「今」を自分がどのように生きているのかという回心と、神に対する揺るぎない信頼を伴うもので、イエス・キリストによって歴史の中に始まり、完成に向かって進んでいるのです。
2022年11月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教