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心の貧しい人々は、幸いである
―年間第4主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:苦しみに耐える
 (ゼファニヤ書2章3節、3章12−13節)

 紀元前733年のシリア・エフライム戦争の際にアハズ王によって導入されたアッシリアの祭儀(バアル礼拝)は、ヒゼキヤ王によって排除されましたが、マナセ王とアモン王の間に再び盛んになりました。紀元前622年、ヨシヤ王は宗教改革を行い、異教の温床となりやすい地方聖所を廃止し、祭儀をエルサレム神殿だけで行うようにしました。この宗教改革の指針となったのは、現在の申命記の主要部分であったと考えられています。ゼファニヤは、ヨシヤ王の治世(紀元前640−609年)以前からエルサレムで預言活動を行いました。預言の中心主題はバアル礼拝(偶像崇拝)の批判に置かれています。
 ゼファニヤ書2章3節で「苦しみに耐えてきた(……人々)」と訳されたヘブライ語の「アーナーヴ」と、3章12節で「苦しめられた」と訳された「アーニー」は同じ語根の言葉です。また、2章3節で「苦しみに耐えること」と訳された語「アナーヴァー」はアーナーヴと同じ語根の名詞形です。
 この語は基本的には「有力者から圧迫されて貧しく生きている」ことを表しますが、そこから「人の力に頼らず、神に信頼する謙虚さ」といった意味でも使われます。新共同訳が「苦しみに耐えてきた人々」とか「苦しみに耐えること」(2章3節)と訳したのは、「圧迫されている」という背景を大事にしたからです。この語には、 岼鞠されて耐えている」、◆峽从囘に貧しい」、「神にだけ信頼する謙虚さ」という意味合いが含まれています。第一朗読は、マナセ王とアモン王の間に再び盛んになったバアル礼拝の時代に、圧迫されて貧しく生き、神への信頼を捨てることのない敬虔な人たちへの救いの言葉が語られています。

 福音朗読:幸いな人とは
 (マタイ5章1−12節a)

 3−10節全体の構成図を示すと次のようになります。

【3節】心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである
 【4節】悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる
  【5節】柔和な人は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
   【6節】義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる
   【7節】憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける
  【8節】心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 【9節】平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる
【10節】義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである

 3節と10節はどちらも「天の国はその人たちのものである」であり、この表現によって3−10節全体は囲い込まれています。したがって、この段落全体は「天の国」をテーマとし、各節の一行目が天の国に入る幸いな人を表し、二行目はその人たちの幸いな状態を明らかにしています。
 太字で示した動詞は受動形ですが、ここでの受動形は神が行為の主体であることを示す受動形(=神的受動形)です。4節の(神によって)「慰められる」は、9節(神によって)「呼ばれる」と同根の動詞で「傍らに呼ぶ」の意味です。4節と9節の対応関係を考えると、神から受ける慰めとは「神の子」と呼ばれることです。5節「地を受け継ぐ」と8節「神を見る」が対応します。旧約聖書では「地を受け継ぐ」ことは神の救いに招き入れられることを意味しています。だから、「地を受け継ぐ」人は「神を見る」ことになります。6節は「義」をテーマとし、7節は「憐れみ」をテーマとしていますが、「義」と「憐れみ」は神の特徴として関連づけることのできる言葉ですから、6節と7節も対応関係にあります。
 このような構成から分かることは、幸いな人とは、前半部(3−6節)が示すように、圧迫(迫害)されて苦しんでいてもへこたれることのない人であり、また後半部(7−10節)が示すように、圧迫(迫害)の中にあっても平和を作り出す人のことです。

 今日の朗読のまとめ
 今日の福音は「山上の説教」(マタイ5−7章)の冒頭で、イエスは開口一番「幸いである」を八連発(もっと正確には九連発)されますので、「真福八端(しんぷくはったん)」とか「八つの幸い」と呼ばれています。3−10節の八つは、ギリシア語原文ではいずれも「幸いである」という祝福の言葉のあと、どのような人がその幸いを受けるのか、そしてその報いがどんなものなのかを説明しています。
 今日は冒頭の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という句を考察したいと思います。今日の福音で「(心の)貧しい」と訳されたギリシア語(プトーコス)は、旧約聖書七十人訳ではヘブライ語「アーナーヴ」や「アーニー」の訳語として用いられています。「アーナーヴ」は、 岼鞠されて耐えている」、◆峽从囘に貧しい」、「神にだけ信頼する謙虚さ」という意味に解釈することができます(第一朗読)。
 3−10節が「幸いである」と述べる人物像はイエスを思い起こさせます。イエスはさまざまな圧迫にあっても、くじけることなく、それを耐え忍びました。しかも、敵をも愛し、彼らとの間に平和を作り出そうとして十字架にのぼりました。3−10節の教えを述べたイエスは、自らもそのように生きた方なのです。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(競灰螢鵐判8章9節)。ですから「貧しい人」とは、イエスのこの貧しさに根元的に、愛によってあずかる者を指しています。具体的(現実的)には、「(心の)貧しい人」とは、,悗蠅だった心を持つ者。天の国のために自発的に(持っているものを)捨てて、貧しくなった者。自分の力に頼らず神の助けを信頼する者。を指します。天の国はこのような人に恵みとして与えられるのです。
2023年1月29日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
本文中盤「福音朗読」の冒頭の「3−10節全体の構成図」部分は、スマートフォンでも読みやすいよう、デザインを原文とは変えております。
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