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あなたがたは地の塩……
世の光である
―年間第5主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   5章13−16節


 第一段落:
  あなたがたは地の塩である
  (13節)

 イエスは「山上の説教」(マタイ5−7章)を聴いている弟子たちと群衆(=すなわち、イエスのもとに集まり、彼の言葉に従って生きようとするすべての人)に、「あなたがたは地の塩である」と宣言します。「地の塩であれ」とは言わずに、「地の塩である」と言い切っていますから、彼らはすでに「地の塩」なのです。
 塩は食物に微妙な味をつけ、また腐敗を防いで、清潔さを保ちます。イエスに関わる人々は、地上に塩味をつけるという役割を担っています。しかし、忘れてはならないことはその塩味はイエスを通して神から与えられるということです。イエスに従うことなしに、塩は塩となることができません。
 イエスはこの事実に基づいて「塩に塩気がなくなれば」と仮定します。この表現を直訳すると「塩が馬鹿になるなら」となります。当時の塩は現代のように精製された白い塩ではなく、不純物も多く混じっていて、湿気を吸って塩味が抜けてしまうことがよくありました。マルコは「塩気をなくす(アナロス)」という言葉を使いますが、ルカとマタイは「馬鹿になる(モーライノー)」を使います。「モーライノー」に変えたのは、時のしるしを見逃す弟子たちや人々の愚かさをほのめかすためです。
 塩が味を失って本来の働きをなくすなら、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」こと以外に道はありません。世に対して神から委ねられた「地の塩」としての役割を果たせなくなったキリスト者も同じことです。

 第二段落:
  あなたがたは世の光である
  (14−15節)

 イエスのもとに集まった人々は「世の光」であります(14節)。この光の特徴は「隠れることができない」ことです。パレスチナに特徴的な「山の上にある町」は、どこにも姿を隠すことができません。また、人は「ともし火」を升の下ではなく燭台の上に置いて、家中を照らすようにします。同じようにイエスから与えられた、キリスト者が身に帯びる光は隠れることができず、また隠してしまったら何の役にも立ちません。イエスに従う者は、言葉と行動によって、イエスの光を外に輝かします。

 第三段落:
  天の父をあがめるようになるために
  (16節)

 すでに塩であり、光である「あなたがた」に「光を輝かしなさい」という命令が与えられます。これを直訳すると「あなたがたの光輝きなさい」となります。イエスは「あなたがたの光」とは言いません。イエスが期待するのは、自ら光を輝かせるのではなく、すでに与えられている光を覆って隠してしまわずに人々の前に示し、その光の出所を指し示すことです。そのとき、人々は「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめる」ことができます。

 今日の福音のまとめ:
  塩であり光である

 塩には味付け、清め、腐敗防止といった働きがあります。レビ記2章13節によれば奉納物には塩がふりかけられます。エリシャはエリコの町の水源に塩を投げ入れて良い水に変えました(列王記下2章19−22節)。ラビの伝統では、塩は知恵のシンボルです。
 今日の第二朗読では、キリストの十字架に示された神の知恵と人間の知恵が対比されています。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も心に知るまいと心に決めていたからです」とパウロの決意が述べられます(2節)。十字架につけられたキリストに示された知恵ではなく、人間の知恵に頼ろうとする愚かさが誰の中にもあります。この言葉は、十字架につけられた救い主のほかに、何かを知りたいと思う私たちへの警告のように聞こえます。
 3節の「衰弱していて」を直訳すると「弱さの中に」となります。コリントの教会では、分派争いが起こり、自分たちを「知恵ある者」と誇る者が教会内に現れました。「神の力」は人の言葉や知恵から見れば「愚かな」と映る十字架のキリストに現されました。パウロが「弱さの中に」留まるのは、それが「地の塩」として「神の力」を伝える唯一の方法だからです。人の言葉や知恵を誇る者に対して、パウロは、神に召されたときにいかに自分たちが無力であったかを思い起こさせ、「地の塩」として人々に働きかけ、神の力に目をむけさせようとしています。
 塩は見映えがせず、溶けてしまえば人の目に触れることはありませんが、塩は物の内にあって働くもの、光はその反対に外部にあって、内のものを外に現す力を持っています。だから、「地の塩」はイエスの弟子たちが世界に働きかける遠心的動き(外に向かって働く力)を述べ、「世の光」は、その光を目指して世の人々が近づいてくる求心的な動きを表します。また、ヨハネ福音書で語られるような「真の光」としてのイエス=キリストとの関連で考えるなら、イエスに従う者が光である根拠は「真の光」を反射する者、あるいは「真の光」がその内に住んでいることです。
 イエスに従う者は世から隔離させるのではありません。彼らは「地の塩」であり、「世の光」であり、人々に踏みつけられることがないように、人々の前に光が輝くように配慮します。それは人々が彼らの「立派な行い」を見て、神をたたえるようになるからです。 立派な行いとは、(具体的には)旅人をもてなし、困っている人を助け、病人を見舞うことなどです。けれども、これらの立派な行いは、人が誇るためでも、そのこと自体に意味があるのではありません。その行いを見た人が天の父をあがめるようになるためなのです。
2023年2月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教