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敵を愛しなさい
―年間第7主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  聖なる者となりなさい
  (レビ記19章1−2・7−18節)

 今日の朗読から割愛されているレビ記19章3−16節はモーセの十戒(出エジプト記20章1−17節)に基づいています(十戒の区分はカトリックの教えに従います)。
3節 「父と母とを敬いなさい」→第四戒。「安息日を守りなさい」→第三戒。
4節 「偶像を仰いではならない」→第一戒。
11節 「盗んではならない」→第七戒。「うそをついてはならない(神名の冒涜)→第二戒。
16節 「偽証をしてはならない」→第八戒。

 今日の朗読を含むレビ記17−26(27)章は「神聖法集(しんせいほうしゅう)」と呼ばれる掟集であり、長い年月をかけ、しかも律法の朗読が行われた集会との関わりの中で磨き上げられていった掟集だとされます。
 レビ記17−26(27)章が「神聖法集」と呼ばれるのは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」(19章2節)といった表現が繰り返されるからです。今日の朗読では、この表現に続いて、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と述べています。しかも、新共同訳は訳出していませんが、神の聖性を根拠にして、「聖なる者となりなさい」と求めています。
 しかし、「聖なる者」となるための努力は人間ひとりで行われるのではありません。レビ記20章8節に「わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする」とあるからです。人間と神との共同作業によって、聖なる者となります。

 第二朗読:
  あなたがたは神の神殿
  (汽灰螢鵐判3章16−23節)

 コリントの教会では分派争いが起こっていました(1章10−17節、3章3−4節)。パウロは分派争いをする人々に向かって、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と述べています(3章16節)。「神殿」は単数形を用いていますから、ここでの「神の神殿」は教会共同体のことです。パウロはコリントの教会の人々の目を「神の神殿」に向けさせることによって、教会内の分派争いは無意味であることに気づかせようとします。
 キリスト者とは、キリストによって救われた「神の神殿」です。分派争いをするのは、自分が誰であるかを忘れているからであり、だからこそパウロは、「自分を欺いてはなりません」と命じ、「人間(=自分が属する党派の党首であるパウロ、アポロ、ケファ)を誇ってはなりません」と説きます(18・21節)。
 神の神殿である「あなたがた」は「キリストのもの」なのであって、「パウロのもの」でも、「アポロのもの」でも、「ケファのもの」でもありません。むしろ、「パウロもアポロもケファも……一切はあなたがたのもの」です(22節)。パウロは、使徒たちは「神の神殿」に仕える者であって、教会を所有する者ではない、と考えています。だからパウロは、21−22節で、「すべては、あなたがたものです……一切はあなたがたのもの」と繰り返し、さらに「一切を所有するあなたがた」は「キリストのもの、キリストは神のもの」と述べて、最終的にすべてを所有するのは「神」であることを示しています(23節)。
 自分を知恵ある者と自負せず、すべてを支配(所有)する神(キリストの十字架に示された神の知恵)に目を向けるなら(3章18節)、分裂は起こらないはずです。

 福音朗読:
  イエスのことばの根底にある
  天の父の愛(マタイ5章38−48節)

 イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言います。そのことの成就のために、イエスは、六つのアンチテーゼを提示します。(△鯲ててはならない、姦淫してはならない、Nケ錣靴討呂覆蕕覆ぁ↓だ世辰討呂覆蕕覆ぁ↓ド讐してはならない、そして、ε┐魄Δ靴覆気ぁ△任后今日の福音は、そのイ鉢Δ砲弔い童譴辰討い泙后
 イエスの要請は、私たちに、根本的な転換を求めます。「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)。ただ仕返しを我慢するだけでなく、相手が望む以上に与えなさいというイエスの教えは私たちには難しすぎる課題です。しかも、相手が自分より強い有力者であれば、我慢もできなくはないでしょうが、「借りようとする者に、背を向けてはならない」(42節)と述べているように、イエスの教えは弱者に対しても同じ態度を要求しています。人間の自然な感情から言えば、弱者に対する忍耐はいっそう難しいことです。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。このようなことは、自分の力に頼っていてはとうてい実現できません。46−47節に登場する「徴税人」とは自分の利益を大事にするあまり神を忘れる人であり、「異邦人」とは真の神に出会っていない人をあらわしています。彼らのような生き方を乗り越えるには、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる天の父の愛(45節)に立ち戻ることです。
 イエスは「律法を完成する」と言いますが、それは「律法を一字一句違えず(たがえず)守る」という意味ではありません。「完成する」の対語(ついご)である「廃止する」は、もともと「ばらばらにする」を意味します。捕囚からの帰還後、ユダヤ教は硬直化し、律法本来の精神を忘れ去りました。ユダヤ教は律法をばらばらにしてしまいましたが、イエスはむしろその精神が現れるようにと新たな息吹を吹き込みました。ばらばらに分解されていた戒めは、イエスによって神と隣人とへの愛で一点に結ばれたのです(マタイ22章40節)。
 だから、山上の説教はあれこれせよという命令でもなく、できるだけそれを守れという勧めでもなく、いざ決戦に備えよという進軍ラッパでもありません。イエスの(山上の説教の)ことばの前提には、天の父の愛が流れています。それはイエスの喜ばしい便りなのです。まず、イエスのことばの根底にある天の父の愛に目を向けることが大切なのです。
2023年2月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の序盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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