印刷など用に
Wordファイル
ダウンロードしたい方は
こちら


神さま、なぜですか

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 昨年末、いわゆる宗教二世の問題がありました。私は、「宗教」や「信仰」に対して、誤解する人たちや拒否する人たちが出て来るかも知れないと思いました。
 神学生の頃、「自然神学」という授業を受けました。神への信仰を否定する人たちの意見を反論する講義です。例えば、「あなた(がた)は、心が弱いから宗教なんかを信じているのだ」という考えがあります。普通のキリスト者は心が弱いから信仰を続けているとは思ってはいません。この考えに対する答えは、「私(たち)は、自分ではどうすることもできないかた(=神)を受け入れています。それは心が広いから、心が強いから、受け入れることができる」です。
 旧約聖書を勉強していたとき、ある教授が言いました。日本人は「願いをかなえてください」という現世利益的な祈りをよくします。願いがかなったならば、自分の力を誇り、神への感謝を忘れがちです。願いがかなわなかったならば、「神も仏(ほとけ)もない」と言って、神のほうに心を向けなくなる人がいます(キリスト者であっても、たまに「祈っても願いをかなえてくれなかった」という理由で、教会に来なくなる人がいます)。
 ユダヤ人は悲しい、苦しい出来事が起こると、「神さま、なぜですか」という問いかけの祈りをしたと、教授は教えてくれました。私たちの信仰生活は、よいことばかりではありません。悪いこと、つらいこと、がたくさんあります。「神さま、なぜですか」という問いかけを繰り返すうちに、神のみ旨(みむね)を知ることができ、信仰が深くなってゆきます。例えば、どんなに人間が頑張っても、「神の時」― 時が満ちなければ、物事は実現しません。私たちは、ある事を成し遂げようと努力することは大切ですが、自分の能力や力に頼ってしまい、信仰者であることを見失っていることがあります。
 「信じる」は、ギリシア語では「ピステウエイン」です。名詞は「ピスティス」で、普通「信仰」と訳されていますが、「信頼」という意味もあります。聖書の中で「神を信じる」というのは、頭で考えて「神がいると思っている」というようなことではありません。そもそも聖書の世界では、神がいるのはあたりまえです。その上で、ピステウエイン、ピスティスというときは、その神を信頼して生きるかどうか、ということを問われているのです。
 信頼には二種類あります。ひとつは絶対的信頼です。ゆるぎない信仰です。(このような人はめったにいません)。もうひとつは、アウグスティヌスが言う「疑いつつ信じる」ということです。日常生活の中で、「神さま、なぜですか」と問いかけて祈るうちに、出来事と御ことばとが重なることによって出来事の意味がわかり、神への信仰(信頼)を深めることができます。そこに「信仰」の喜びがあると、私は思うのです。