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永遠の命に至る水がわき出る
―四旬節第3主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
第一朗読:不平を言う民
(出エジプト記17章3−7節)
荒れ野を出てシナイに至るまで、民は二度も飲み水のことでモーセに不平を言います。最初は「マラの苦い水」(15章22−27節)であり、荒れ野を三日間歩いて、ようやく見つけた水が「苦い水」だった時のことです。その時には、モーセの叫びに答えて、主(しゅ)が一本の木を示し、それを水に投げ込むと、甘くなりました。
しかし、今日の第一朗読の箇所となった「岩からほとばしる水」では、「苦い水」すら見つかりませんでした。そこで民は、早速、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子どもたちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と不平を言います(3節)。この不平は出エジプト記16章の「マナの出来事」の時と同様に、食べる物や飲み水に苦しむことのなかったエジプトでの生活をなつかしむ気持ちと一つになっています。
ここで「不平を言う」と訳された動詞は「ぶつぶつ文句を言う」というだけでなく、モーセの指導力に疑問を投げかけ、「指導者として不適格だと見なす」といった意味合いをも持っています。民の不平が強まれば、それだけ神が行う奇跡も尋常ではなくなります。「マラの苦い水」の時には、木を水に投げ込むだけでしたが、今度は主(しゅ)が立つ「岩」を「ナイル川を打った杖」で打つと水がわき出てきました(5−6節)。
この奇跡が起こった地をモーセは「マサ(試し)」と「メリバ(争い)」と名付けます。水をめぐる争いは荒れ野では深刻です。「争い」という名前が付けられたのは、その地で水をめぐる争いが何度も起こったことを想像させます。しかも、水をめぐる「争い」は人間の間の紛争では終わらず、神の導きに対する不信感にもなりえます。荒れ野の民の不平は、モーセに「争い」を向け、さらに神を「試す」ことになったのだと、この物語は伝えています。
福音朗読:永遠の命に至る水
(ヨハネ4章5−15節、19b−26節、
39節a、40−42節)
3節にイエスは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。ユダヤからガリラヤに行くにはサマリアを通るのが一番近道ですが、ユダヤ人たちはサマリアを避けて、ヨルダン渓谷を迂回していました。しかし4節は「サマリアを通らねばならなかった」と述べており、イエスがサマリアに入ることが、神の計画であったことが示されています。
シカルはエバル山の東麓の町で、ヤコブがヨセフに与えた土地の近くとされています。ヤコブの井戸のそばにイエスが座っていると、サマリアの婦人が水をくみにやって来ます。水をくむ通常の時刻は朝と夕方です。彼女は誰も井戸に来ようとしない「正午ごろ」に出てきました。このような行動には、16−18節で言われるようなこの婦人の奔放(ほんぽう)な性格が反映しているのかも知れません。こうして福音は、イエスが「不信心な者」や「罪人」のためにサマリアで宣教したことを伝えるのです。
「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える(未来形)水を飲む者は決して渇かない(未来形)。わたしが与える(未来形)水はその人の内で泉となり(未来形)、永遠の命に至る水がわき出る」(13−14節)。
この対話の中で、婦人の念頭にあるのは、ふつうの水、井戸の水です。それにひきかえ、イエスは「水」という語に、イエスが栄光を受けるとき信者に与える聖霊について言及しています。引用文中の動詞を、現在形と未来形に使い分けている事実がそれを示しています。
水は人を「洗い清めます」(13章5節以下)。洗礼によって与えられる聖霊も私たちを清め、神の子としての新しい誕生を与えます。次に水は私たちの「渇き」をいやします。イエスは「五人の夫を持った」(18節)サマリアの婦人さえも「生きた水」を飲むように招きます。しかし、このような霊的現実を理解するにはあまりにも即物的な婦人(そして私たち)に、イエスは「もしあなたが、神の賜物を知っているなら……。(ぜひ知ってほしいのだが)」(10節)と、胸のうちを切々と述べます。
第二朗読:
希望の源泉は神の愛にある
(ローマ5章1−2節、5−8節)
第一朗読ではイスラエルの民が荒れ野でのどをからし、水を求めます。ますます人の住まない荒れ野に分け入るのですから、飲み水や食べ物に目を奪われている限り、不安から脱出できません。目を変える先を変えなければ、根本的な解決とはなりません。
ヘブライ語で「希望」を表す一つの名詞は、「目を向ける」という動詞から派生しています。目を向ける先が間違っていれば、確かな希望を持つことができません。パウロは第二朗読で、キリスト者の希望の根拠を神の愛においています。
パウロは「このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます(2節)。今、私たちが立っている「恵み」への導入路は、私たちの行いではなく「信仰」です。その信仰の内容について、5b−6節では、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」と述べ、8節は「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」と述べています。
この両者に挟まれた7節では、人が他者のために死ぬことはほとんどなく、あっても「善い人=利益をもたらした人」のための死でしかない、と述べ、「不信心な者」や「罪人」のために死んだキリストの愛と、キリストを通して示された神の愛に目を向けさせています。
岩からほとばしり出た水がただ渇いたのどをうるおすだけで終わるなら、すぐに不安が頭をもたげます。聖霊の働きによって、のど元を通り過ぎて「心に注がれ」、水に込められた愛が心を満たすとき、目を向ける先が変わり、確かな希望を持つことができます。サマリアの婦人は、イエスと向かい合って、語り合ううちに、宣教する者に変えられてゆきます。この変化は「不信心な者」や「罪人」を切り捨てない愛に出会ったことから始まります。
2023年3月12日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教