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生まれつき目の見えない人は
行って洗い、
目が見えるようになって、
帰って来た
(ヨハネによる福音9章)
―四旬節第4主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 生まれつきの盲人のいやしは
  洗礼の象徴

 今日の福音は、洗礼志願者を闇から光へと招き入れる伝統的な箇所です。古代の教父たちも生まれつき目の見えない人を洗礼志願者に当てはめています。
 生まれたときから目が見えなかったということを強調していることに注目すべきでしょう。ここでは洗礼のことを述べている可能性があると理解されることもあります。アウグスティヌスは、目が見えないということを原罪に関連づけました(「生まれつきの盲人は人類のことです」と)。
 奇跡に先立つイエスの二つの行動は、安息日に対するラビの規定に違反しています。唾でいやすことと泥をこねることです(6節)。ヨハネ福音書において、泥を両目に注ぐ(塗る)ということが、洗礼の時に油を注ぐことと関係があるではないかと考える学者もいます。
 いやしはシロアムの池の中で「洗う」という行為で完了します(7節)。「遣わされた者」という名前をもつこの池は、イエスが神から遣わされた者であること、あるいは盲人が遣わされた者になっていくことが象徴的に表されています。洗礼のことをテルテゥリアヌスとアウグスティヌスに思いつかせたのは、この池の名前の意味をヨハネ福音書が象徴的に強調しているからです。カタコンベ(地下墓所)の初期の芸術作品においては、生まれつきの盲人のいやしは、洗礼の象徴となっています。

 イエスは視力をもたらす方
 光はものを照らし、見えるようにします。つまり、「啓示」します。〔啓示……神が人に見える形で教え示すこと〕。「わたしは世の光である」(8章12節)と言われたイエスは、実際に生まれつきの盲人に物理的な視力を与える「しるし」を行うことによって、「信仰の視力」をもたらす「光」であることを地上で行って示しました。
 目が見えなかったけれども、イエスのおかげで見えるようになった人と、ファリサイ派の人々あるいは「ユダヤ人たち」(見えると主張する人々の霊的盲目=彼らは見ることができたのに、イエスのゆえに目が見えなくなってしまった)との間に大きな皮肉があります。
 ファリサイ派の人々あるいは「ユダヤ人たち」にとってイエスは、「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(16節)、「罪ある人間」(24節)、「あの者がどこから来たのかは知らない」(29節)。彼らにとってイエスは最後まで、神とは無縁の、または、神に背く「あの者」に過ぎません。ファリサイ派の人々は、詳細な知識を学んでいるのに、イエスがどこから来たのか、知る(見る)ことができませんでした。
 それにひきかえ、盲人は「イエスという方」(11節)、「預言者」(17節)、「神をあがめ、その御心を行う人」(31節)、「神のもとから来られた方」(33節)、「主」(38節)といった具合です。盲人は、ほとんど何も分からなかったにもかかわらず、多くの称号を学びます(最後の「主」〔信仰の対象としてのメシア〕は最高の称号です)。今日の福音は触れていませんが、見えない者として生まれ、今初めて見えるようになったこの人の、想像を絶する驚きと喜びを、読者としての私たちは感じとってよいでしょう。それだけに、信仰の目でイエスの中に「メシア」を見たときの感激と喜びはいかばかりであったことでしょう。
 今日の福音で、イエスに出会った盲人は4つの質問(15、17、24、26節)を受けますが、これは一世紀末のユダヤ教(ファリサイ派)による宗教裁判の様子を反映しています。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであることを公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)。その時代、ユダヤ教徒(ファリサイ派)とキリスト者との対立は深刻化し、後者は迫害を受けていたのでした。
 迫害は、イエスとの関わりが吟味されるときであり、そのことを通して、真にイエスと出会うことになる、とヨハネは主張します。闇に留まっているのは頑なな人々のほうであり、その彼らから追放を受けることは、闇からの決別であり、イエスに出会い、まことの礼拝をささげるための解放だと考えているのです。

 イエスのもたらした区分
 当時、目が見えないということは、罪を犯していることを意味する罰であったと考えていた弟子たちに対して、「神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言います。「罪」の捉え方が、当時の常識とイエスとの間では大きく異なっています。
 イエスは41節で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と述べているように、人間の不完全さ(例 目が見えない)それ自体は罪ではありません。イエスにとって大事なことは、罪の原因を詮索することではなく、不幸からの解放(いやし)に目を向けることです。しかし、「今、見えている」=(自分は完全だ、自分の罪は認めない)と言い張るとき、いやすために遣わされたイエスを拒絶してしまいます。この頑なさが「罪」なのです。
 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(9章39節)。
 「裁くため」と訳すより、「区分をもたらすため」とする方が適切かも知れません。あるいは、「わたしが来た。その結果、区分が生じた」と。ギリシア原文も、この場合は「裁き」とは異なる語を用いています。事実、イエスという光を前にして、見ようとする者と、見ようとしない者、すなわち、信じる者と信じない者の区別が生じます。後者は、不信によって、みずからを「裁かれる立場」に置くのです。そういう意味で裁きが生じます。
 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」(41節)というイエスの言葉も、そういう観点から理解されるのです。
2023年3月19日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文の終盤で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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