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わたしは復活であり命である
(ヨハネによる福音11章)
―四旬節第5主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
イエス、ラザロを生き返らせる
人生を考えるとき、避けて通れない最大の課題が「死」です。確かに、「人は死ねば骨だけになる」「人は死ねば土にかえる」も、感覚的次元では事実です。そして、それとともに何もかも消滅し、人生も、その課題も消え失せるといって、割り切っている人もいるようです。でも、そのような人生観では決して承服できない人もいるわけで、ヨハネ福音書のこの11章は、そういう人々に語りかけ、訴える強烈なメッセージを味あわせる箇所です。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(11章14−15節)。
この言葉にもあるとおり、イエスがこれから行おうとする最もドラマチックな「しるし」(=ラザロの蘇生)も、まさに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11章25−26節)という言葉の中の、イエスが「復活であり、命である」という啓示を信じさせる目的でなされた「しるし」でした。
マルタの信仰告白
イエスと会って、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(21−22節)と言ったマルタの言葉は、彼女が兄弟ラザロの蘇生を期待していた事実を示しているのでしょうか。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)という当時の一般的な復活信仰への言及や、「主よ(葬られて)四日も経っていますから、もうにおいます」(39節)という言葉からすると、目の前で兄弟の「生き返り」を期待していたのではないようです。※パレスチナでは、死んだ日に葬式が行われました。ユダヤ人の俗信によれば、死者の魂は死後三日間、死体の周りにうろついていますが、四日目に立ち去り、肉体の腐敗が目に付くようになって、その後はもはや、死者の蘇生の希望はないと考えられていました。
ただし、「復活であり、命である」イエスを「信じる者は、死んでも生きる」ということを「信じるか」と問われて、マルタが口にした言葉は、マルタの理解がどうであったにせよ、福音記者ヨハネと彼の共同体、また、現代の教会共同体にとっても、真の「信仰告白」になるものです。ペトロの信仰告白(6章68−69節)と同じように、今、私たちもマルタと共に次の信仰を抱くように招かれています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11章27節)。
つまり、ヨハネはラザロの蘇生を、信じる者にとってイエスその人こそ「復活であり、命である」というための背景として用いています。そしてイエスとは、ヨハネと彼の共同体にとって、すでに半世紀以上も前に生き、死なれた方であるだけではなく、今、ヨハネと彼の共同体の宣教の言葉、彼らの「証し」を通して自ら語り続けている復活のイエスでもあります。このイエスを今ここで信じるか信じないかに応じて、人それぞれの運命が決まってゆくのであって、いつかわからない未来の「終わりの日」のことではないのです。
ラザロの蘇生とイエスの復活
布や覆いにまとわれたまま墓から出て来た(この地方の墓は洞穴式です)ラザロの蘇生(11章44節)と、人手を借りずにそういうものから離れて墓を出た(20章7節)イエスの復活とは、何と違うことでしょう。生き返ったラザロは再び死ぬ運命にありました。「永遠の命」そのものであるイエスの復活の「しるし」に過ぎないからです。
イエスの動作の中で注目すべきなのは、「心に憤りを覚える」(直訳 鼻を鳴らす。怒りや憤懣〔ふんまん〕をこめて鼻を鳴らすことを意味します)が二度使われていることです。一度目は弟ラザロの死を悼んで泣くマリアを目にしたときであり(33節)、二度目は、ラザロの墓に向かうときです(38節)。イエスの憤りは、サタンの働きに対する怒りや人間をやり場のない悲しみに突き落とす死に対する怒りであると同時に、永遠の命を信じ切れない不信仰に対しても向けられています。マルタが「主よ(葬られて)四日も経っていますから、もうにおいます」(39節)と言ったのは、死の四日後には、魂が死体の周辺から完全に離れ去ると考えられていたからであり、ラザロは完全に死んだと考えています。
人々が墓に見るものは悲しみと絶望ですが、イエスは神の栄光を見ています。※イエスの「受難・死・復活」という救いの行為は、ヨハネ福音書では「栄光」と呼ばれます。
今日の福音のまとめ
ラザロの蘇生という復活の「しるし」は、祭司長やファリサイ派の人々の間に、「イエス殺害計画」というネガティブな結果を引き起こしました(46節以下)。イエスはラザロに命を与えたことによって、十字架の死への道へと向かうことになります。命を与える者が命を落とすというパラドックスをヨハネは意識しています。イエスの十字架は、命を与えたゆえに引き起こされますが、その結果、私たちに真の命が与えられることになります。
ところで、奇跡を見てイエスを信じた人々が数多くいました(45節)。この奇跡の最大の成果は、ラザロの蘇生という「しるし」そのものというよりは、この奇跡を見た人々が信じるようになったということです。しかし、その種の信仰は、結局は初歩的で、不完全なもので終わってしまいます。イエスの言葉によって信じた(8章30節)人々も、イエスから、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(8章31節)と、「弟子の信仰」にまで深まっていくべき信仰を求められています。私たちも今日の福音を読みながら、絶えざる信仰の成熟へと招かれているのを感じるのです。
2023年3月26日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
●本文の前半で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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