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イエスが来て真ん中に立った
―復活節第2主日A年

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

  ヨハネによる福音 20章19−31節

 今日の福音の文脈
 −イエスの顕現物語(ヨハネ20章)


(1)  1−18節
 顱 1−10節
  ペトロと「もう一人の弟子」が
  墓が空であったことを確認
 髻11−18節 
  イエスがマグダラのマリアに顕現

(2) 19−29節
 顱19−23節
  イエスが弟子たちに顕現
 髻24−29節
  イエスがトマスに顕現

 ヨハネ20章に描かれている出来事は、すべて「週の初めの日」に起こっています。この章は30−31節を除くと、二つの段落(1−18節・19−29節)に分けることができます。どちらの段落でも、まず複数の弟子が関与する出来事(1−10節「空の墓の確認」・19−23節「イエスの顕現」)が述べられ、その後に、ある個人に関する出来事(11−18節「マリア」・24−29節「トマス」)が語られます。イエスの復活は、彼を信じる集団を変えると同時に、個人をも変える出来事であり、週の初めの日=日曜日(祭儀)と関係する出来事なのです。

 今日の福音の構成
 今日の福音は、二つの段落に分かれます。
(1) イエスが弟子たちに顕現
  (19−23節)

 この段落のテーマは、イエスの顕現が弟子たちに引き起こした変化です。イエスの言葉(19・21節「あなたがたに平和があるように」)と動作(20節「手とわき腹とをお見せになった」と22節「息を吹きかけた」)が繰り返され、間に挟まれた弟子たちの「喜び」(20節)がクローズアップされます。
 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。ここでの「戸」は複数形で書かれているので、家の戸だけでなく、心の「戸」をも表しているのかも知れません。彼らの心は恐れで閉ざされていますが、イエスはその彼らの真ん中に立ちます。
 イエスは逮捕され、殺されてしまった。ユダヤの指導者たちの手は、いつ自分たちの上に及ぶのか、弟子たちの恐怖におびえる姿が、目に見えるようです。しかし、弟子たちの閉じこもりの原因は、逮捕への恐怖だけではありません。師であるイエスを見捨てて逃げてしまった裏切りの罪。そのイエスはすでに殺されてしまった。もう取り返しがつかない。弟子たちの心は、救いようのない暗闇に閉ざされています。
 その真ん中に復活したイエスが現れます。「あなたがたに平和があるように」。復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとって赦しの体験でもありました。「赦し」とは「和解、関係回復」の出来事です。イエスを見捨てて逃げたしまった弟子たちは、イエスの弟子として失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、新たに派遣していきます。弟子たちの使命の中心は「赦し」です。

(2) イエスがトマスに顕現
  (24−29節)

 「主を見た」(25節)という弟子たちの知らせに対して、イエスの傷跡の証拠を頑なに求めるトマスには訳があります。トマスにとってほかの弟子が見た主が十字架のイエスと繋がらなければ信じることができないからです。トマスの「わたしの主、わたしの神よ」(28節)を理解するために、ヨハネ21章の「不思議な漁」の出来事で、イエスの愛しておられたあの弟子がイエスだと分かった時の「主だ」(7節)という叫びを考えましょう。それは、感嘆符の付いた告白、叫びです。この箇所も同じです。この言葉はなにかを願う呼びかけではなく、肯定的で断定する言葉で、トマスの信仰告白、宣言なのです。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音が伝える二つの顕現物語は、復活信仰と将来の教会の活動にとって非常に大きな意味を持っています。一週間(八日後)の隔たりをおいて行われたこの二つの顕現は「わたしたち(弟子たち)は主を見た」(20節・25節)という言葉で結ばれています。
 イエスはまず「あなたがたに平和があるように」(19節・21節)と二度繰り返されたから、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と述べ、弟子たちに息を吹きかけ(22節)、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)と言います。この箇所で、弟子の派遣、聖霊、罪の赦しという三つの事柄が一つに結ばれています。
 弟子の派遣によって教会が建てられるのですが、この教会は聖霊によって与えられる罪の赦しによって建てられることが示されています。つまり、復活したイエスは、罪を赦すことによって教会を建てるのです。
 23a節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」で、「赦す」と訳されている語はアフィーエーミです。前者は能動態で、罪を赦すのは弟子たちですが、後者は受動態で、罪を赦す主体が神であることを示しています。人間相互の赦しと神の人間に対する赦しが重ね合わされるのが、聖書の赦しの特徴です。
 復活したイエスの顕現物語(ヨハネ20章)は、いずれも週の初めの日を舞台としています。週の初めの日はキリスト者が集まって主の食卓を囲み祭儀をささげる日です。信じる者が祭儀を行うとき、イエスはいつも真ん中に罪を赦す者として立っているのです。
2023年4月16日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

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