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わたしは羊の門である
―復活節第4主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
ヨハネによる福音10章1−10節
今日の福音の構成
ヨハネ10章では、合計四つのたとえが語られています。
(1)「羊の門」のたとえ
(1−3節a)
(2)「羊飼い」のたとえ
(3b−5節)
(6節 イエスは、このたとえを
ファリサイ派の人々に
話されたが……)
(3)「わたしは羊の門である」
(7−10節)
(4)「わたしは良い羊飼いである」
(11−18節)
(1)と(3)はイエスを羊の門にたとえており、(2)と(4)はイエスを羊飼いに見立てています。しかし、(3)と(4)では「わたしは……である」という荘厳な自己宣言が使われる点で、(1)と(2)とは異なっています。この四つのたとえのうち最初の(1)(2)(3)が今日の福音で読まれます。
(2)と(3)の間に「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが……」(6節)とあることから考えると、ファリサイ派の人々が(1)と(2)のたとえを理解できなかったので、イエスは(3)と(4)では「わたしは……である」という荘厳な自己宣言を用いて、自分が「羊の門」であり、「羊飼い」であることを明らかにしている、と見ることができます。
この章に先立つヨハネ9章では、生まれつきの盲人がイエスによっていやされる奇跡が語られています。そこに登場するファリサイ派の人々は、まずイエスのいないところで、いやされた盲人とその両親を尋問した後、「我々も見えないということか」とイエスに直接問い詰めます(9章40節)。10章は、彼らへのイエスの答えにもなっています。
第一段落:
「羊の門」のたとえ(1−3節a)
1−3節aの「羊の門」のたとえでは、羊の囲いに入ろうとする者たちは、その入り方によって、二つのグループに分けられると語ります。ひとつは「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」たちです。彼らは盗人ですから、羊にとって危険な人たちです。しかし、「門から入る者」たちは羊飼いですから、羊にとっては保護者であり、導き手です。門は、羊から見ると、自分たちのところへ入って来る人を識別するしるしになります。
ヨハネ9章で生まれつきの盲人がイエスとは誰であるかが分かったように、羊の群れは自然と彼の声を知っており、彼に従うのです。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」たちは「盗人と強盗」で、生まれつきの盲人の証しを認めようとしなかったファリサイ派のような人々であることが6節から分かります。
羊の囲いは、家の中庭または草原の中の低い石壁によって囲まれたところです。夜、部族のテントで暮らす羊飼いは、彼らの囲いの中に羊を残し、朝になると羊を牧場(まきば)に連れ出すのです。
第二段落:
「羊飼い」のたとえ(3b−5節)
1−3節aは「羊の囲い」の中に「入る人」について語られますが、3b−5節は「連れ出す人」について述べています。羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いの側でも自分の羊一匹一匹の名前を呼んで連れ出します。これは、数軒の家が共同の「羊の囲い」を使っていたパレスチナの習慣を示唆しています。山羊(やぎ)は夜でも屋外に出しておくことができましたが、羊は夜気に当たらないように夜間は「羊の囲い」の中に収容していたということです。
この段落の主語は、
(a)「羊たち」は
羊飼いの声を聞き分ける
(b)「羊飼い」は
羊を連れ出す
[b]「羊飼い」は
羊の先頭に立つ
[a]「羊たち」は
ほかの者から逃げる
と変化しており、交錯配列法(キアズモ)によって構成されています。この主語の展開によって、羊たちと羊飼いの親密さが明確に描き出されています。羊がよその者に従わないのは「声」」を知らないからです。
「声」を聞いて「ついて行く」羊は、イエスに聞き従う人でもあります。ヨハネ9章でイエスにいやされた生まれつきの盲人は、「神の前で正直に答えなさい。私たちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」(9章24節)とユダヤ人から忠告されますが、彼はこれに耳を貸さずに「あの方は神のもとから来られた」(9章33節)と告白して、イエスに従いました。いやされた盲人は、イエスの「声」を聞いて「ついて行く」羊を表す実例です。
第三段落:
わたしは羊の門である(7−10節)
イエスは7節で「わたしは羊の門である」と宣言し、さらに9節でも「わたしは門である」と繰り返します。この「門」には二重の機能があります。7−8節での「門」は、1−3節aに示されているように、羊に近づく者が何者であるかを見分けるためのしるしです。イエスの前に「盗人や強盗」が来ましたが、羊たちは聞き従いませんでした。「盗人や強盗」はイエスの敵対者や偽メシアのことです。イエスはそれらを見分ける「門」です。
それに対して9節では、イエスが救いへの「門」であると言います。それは盗人の話には耳を傾けない羊が出入りして、豊かな牧草を見つけ出すための「門」です。
10節では「盗人や強盗」とイエスの目的が対比されています。盗人は「盗み、屠り、滅ぼす」ためにやって来ますが、イエスは羊が「命を豊かに受ける」ために来ました。イエスは羊のために命を捨てた良い羊飼いです。羊に求められていることは「門」を見つめ続け、聞き覚えのある声に聞き従うことです。
2023年4月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
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