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わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を
遣わしてくださる
―復活節第6主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 ヨハネによる福音
  14章15−21節


 今日の福音は、前の主日(復活節第5主日A年)の福音の続きとなっていて(13節と14節が省かれていますが)、「告別説教」でのイエスの言葉が朗読されます。イエスが父のもとに帰ると知った弟子たちは、寂しさだけでなく、恐れにも襲われています。敵対する「世」にあって、どのように生きるべきか、不安だからです。

 わたしを愛しているならば
  (15節)

 15節に使われる「愛する」・「わたしの掟」・「守る」が、21節にも登場します。今日の福音は15節と21節によって囲い込まれています。しかし、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と述べる15節では、21節とは違って、「わたし(イエス)への愛」が「掟を守る」ことの前提、すなわち原動力とされています。
 今日の福音のすぐ後(23節)に、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とありますから、この文章は15節の「わたしの掟」に代えて、「わたしの言葉」を入れただけと言えます。ですから、イエスの「掟」とはイエスの「言葉」のことです。イエスを愛しているならば、イエスが与える掟(イエスの言葉)を守ることもできるはずです。イエスが与える掟(イエスの言葉)とは、イエスを信じる信仰に留まることであり、イエスを通して示された愛の中で、互いに愛し合うことです(汽茱魯3章23節)。
 イエスは「わたしを愛しているならば」という条件を満たした場合、三種類のイエスの現存を受けることを約束します。第一の現存は、別の弁護者の派遣=真理の霊の現存(16―17節)、第二はイエス自身の再来の約束=イエス自身の現存(18−20節)、第三はイエスと一緒に住む父の現存です「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(23節)。イエスのこの現存は、受肉による現存、つまり肉による限られた現存とは異なり、昇天後の霊的な現存です。初代教会の人々は、昇天によって父のもとに昇られたイエスが、遠く離れて行かれたのではないことを知っていたのです

 みなしごにはしておかない
  (16−20節)

 16−17節では、「真理の霊」が「別の弁護者」と呼ばれています。この「弁護者」(パラクレートス)は、イエスが去った後に父のもとから送られ、弟子たちのもとに留まります。そして彼らに真理を証しして悟らせ、イエスの教えを思い起こさせ、彼らを守り抜く「聖霊」のことです。「パラクレートス」はもともと裁判で被告を支援する弁護士を意味します。それで聖霊は、弟子たちの強力な弁護者となります。
 弟子たちと共にいるのは、「別の弁護者」だけではありません(聖霊が、別の弁護者であるということに注意してください)。「別の」とあるように、「弁護者」はもう一人存在します。それは「ヨハネの手紙一」によればイエス自身です。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(2章1節)。だから、イエスは自分自身も「あなたがたのところへ」に戻って来て、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束します(18節)。

 わたしの掟を守る人は
  (21節)

 15節の「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」に対して、21節では「わたしの掟を守る人は、わたしを愛する者である」となっており、前提と結果が逆の関係になっています。これは「イエスを愛すること」と「イエスの掟を守ること」が、「信じる」という現実の表裏であるからです。
 掟を実行できるのは、掟を与える者の愛を知り、彼を愛している時です。愛が掟を実行する原動力となります。イエスを愛しているなら、イエスの与える掟、すなわちイエスの言葉を守ることができます。それは、イエスの信仰に留まることであり、イエスを通して示された愛の中で互いに愛し合うことです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは「告別説教」の中で弟子たちに「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。……人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(15章18節−20節)と迫害の予告をします。
 ヨハネ福音書が書かれた一世紀末のユダヤ人社会では、イエスをメシアであると公に告白することは村八分にされることを意味していました(ヨハネ9章22節)。しかし、ヨハネ福音書はイエスを信じる共同体を満たしている聖霊は「別の弁護者」であると語ります。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(17−18節)と。そして「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)と共同体を励まします。このような愛に包まれ、励まされて、信仰共同体はイエスの言葉を生きることができたのです。
2023年5月14日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教