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父がわたしを
お遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。
聖霊を受けなさい
―聖霊降臨の主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  神の偉大な業を語る
  (使徒言行録2章1−11節)

 ユダヤ教の三大祭は除酵祭(除酵祭は過越祭に連続する祭りなので両者を合わせて「除酵祭」と呼ばれることがあります)、五旬祭(七週祭とも呼ばれます)、仮庵祭です。五旬祭は出エジプト記23章16節では「刈り入れの祭り」とも呼ばれています。春の収穫は大麦で始まり小麦で終わりますが、五旬祭はこの収穫の終わりを告げる祭りでした。五旬祭と呼ばれたのは過越祭から50日目に祝われたからですが、この名称にすでに示されているように、過越祭の結びの行事とみなされていました。過越祭・除酵祭で始まる大祭は五旬祭で大きな区切りを迎えますが、過越祭・除酵祭に起こったイエスの十字架と復活も、五旬祭の出来事(聖霊降臨)によって仕上げられ、救いの出来事として完成します。
 第一朗読では、聖霊の到来が、神の臨在を表すしるしである「風」や「音」や「炎」によって描かれ(出エジプト記19章16節以下)、また「突然」とか「天からの」と述べることによって、神からの力(聖霊)が弟子たち一人ひとりをすっかり包んだことを強調しています。天からのこの力(聖霊)が彼らを「ほかの国々の言葉」で話す別人に変えます(1−4節)。
 ここで「言葉」と訳されている語は、原文では「炎のような舌」と同じ言葉です。炎のような舌としての聖霊が弟子たちの上に降ることによって、他の国々の言葉を語る舌を与えられました。これは「バベルの塔」(創世記11章1−9節)によって混乱させられた言葉の再統合であり、新たな共同体の成立を表しています。
 聖霊に満たされた弟子たちはもはや自己中心的な言葉ではなく、相手の言葉で語り始めます。それは分裂を招いた言葉ではなく、すべての人を結び合わせる「新しい言葉(舌)」なのです(マルコ16章17節)。新しい舌で「霊が語らせるままに」話す弟子たちは、今、「霊に従う新しい生き方」へと新たに創造されました(競灰螢鵐判5章17節)。
 5節からは「天下のあらゆる国」から帰って来た人々の反応が描き出されています。彼らは出来事を見てあっけにとられますが(6節)、それは「ガリラヤの人」たちが彼らの「故郷の方言(=言葉)」で話すのを聞いたからです(7−11節)。こうして、聖霊による新たな共同体はどこにでも適用しうる性格を得て、世界に大きく広がりをもつものとなります。
 彼らは自分たちの「言葉」で「神の偉大な業」を聞くことができました(11節)。それは弟子たちが語るというより、彼らの新しい「舌」を用いて、父なる神と復活したイエスと聖霊が語っています。

 第二朗読:
  皆一つの体となるために
  (汽灰螢鵐12章
   3b−7・12−13節)

 コリントの教会はパウロが去った後、分派争いが起こり、「一致」とは言えない状況にありました。また、自分たちは特別な霊を受けて信仰に成熟した者だと自負し、「霊の人」と名乗る人々も現れました(14章37節)。第二朗読は、霊と結ばれた者のあり方をパウロは明らかにしています。
 神の霊と密接に結ばれているなら、誰も「イエスは神から見捨てられよ」と言わないし、聖霊との交わりに入っていない限り、誰も「イエスは主である」と告白することはできません(3節)。このようにパウロは、私たちがキリスト者であること自体が聖霊の働きによると述べた後、キリスト者一人ひとりが持っている能力は、すべて聖霊から分け与えられたものだと教えます。「賜物」も「務め」も「働き」もすべて「同じ霊」によって分け与えられたものであり、神がすべてを分け与えています(4−6節)。しかも、一人ひとりに霊が働いて様々な賜物を与えるのは、「全体の益」となるためであるとパウロは考えています(7節)。
 しかし、原文では、パウロは単に「益」と述べるだけであり、「全体の」は翻訳上の補足です。このように補足したのは、キリスト者は人種や社会的身分が違っていても「皆一つの体」となっているからです(13節)。パウロが述べる「一つ」は人が作り出すのではなく、神がキリストを通して作り出す全体です。パウロにとってこの「一つ」がすべてなのです。

 福音朗読:
  罪を赦された
  「仲間」となるために
  (ヨハネ20章19−23節)

 復活したイエスは弟子たちに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と宣言します(21節)。この派遣の目的はどこにあるのでしょうか。
 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(22節)。
弟子たちがイエスから派遣され、聖霊を授与されて遂行すべき具体的な使命は「人々を赦す」ことです。カトリック教会は「ゆるしの秘跡(告解)」の神学的根拠の一つをこの表現に認めています。しかし、他人の罪を赦すことは私たちには不可能に近いことです。そこで、イエスは息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語りかけました。私たちが赦すのでなく、神の息吹である聖霊が赦す力を私たちに与えるからです。人の罪を完全に赦すことができるのは神だけだからです。
 ペトロは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねたとき、イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えます(マタイ18章21−22節)。七の七十倍も赦す前に人間の寿命が尽きてしまうので、この言葉の意味は「際限なく赦しなさい」ということです。イエスが続けて語った「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイ18章23−35節)の中で「仲間」という言葉を四回も使っています(ギリシア語原文で数えて)。私たちは、お互いに罪を赦された「仲間」であることに目を向けるとき、聖霊によって人の罪を赦す力が与えられるのです。イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と告げたのは、神からの息吹(聖霊)によって、私たちはお互いに罪を赦されて「仲間」とされたことを思い起こすためなのです。
2023年5月28日(日)
鍛冶ヶ谷教会 説教