水無月(みなつき)

主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹

 「神の子イエス・キリストの福音の初め。……洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、……悔い改めのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマ(洗礼)を受けた」(マルコ1章1―5節)。
 洗礼者ヨハネは人々に「回心(悔い改め)」を呼びかけました。その回心のしるしとして行っていたのが、バプテスマ(洗礼)という行為でした。「バプテスマ」という言葉は、「水に浸す(ひたす)、沈める(しずめる)」という意味の動詞から来ています。ヨハネの行ったのも、人をヨルダン川の水の中に頭の先まで沈めるということでした。人は水の中に頭の先まで沈めると息ができなくて死んでしまいます。だから、「バプテスマ」の意味することは、単に水をかけて罪や「ケガレ」を洗い流すというものでなく、古い自分がいったん死に、新たな人間として生まれ変わるということだったのです。もちろん、キリスト教の「バプテスマ」も本来そういうものです。
 「(洗礼者)ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、バプテスマ(洗礼)を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ』」(マタイ3章7−8節)。
 しかし、ヨハネとイエスのメッセージは明らかに違います。ヨハネのメッセージの中心は「差し迫った神の怒り」すなわち神の裁きです。だから、「悔い改めにふさわしい実を結べ」というのがヨハネの結論です。それができないならば、神の裁きに出会って、滅びていかなければならないということです。
 「(洗礼者)ヨハネは……自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか……』。イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」(マタイ11章2−6節)。
 対して、イエスは「神の赦し」を中心にし、「神の愛」を信じて人々に「回心(悔い改め)」を呼びかけました。ヨハネとイエスのメッセージの違いは「罪の裁き」と「罪の赦し」なのです。
 一年のちょうど半分ずつにあたる6月30日と12月31日に、「大祓(おおはらい)」が行われます。1回目は夏越の祓(なごしのはらい)、2回目は年越しの祓(としこしのはらい)です。夏越の祓では、半年分の厄(やく)や「ケガレ」を落とし、残りの半年の無事を祈願します。
 「水無月」という和菓子があります(6月の和名も水無月です)。室町時代、宮中では氷室(ひょうしつ)の氷(こおり)を口にする宮中行事が行われていました。その氷の形を庶民がまねて、作られた和菓子がはじまりといわれています。広い三角形の外郎餅(ういろうもち)の白は氷を、小豆(あずき)の赤は「ケガレ」を落とす色をあらわし、夏越の祓の日に食べる和菓子として、今も伝えられています。
 私の母親の命日は年7月4日です。数年前、母親の命日にあわせて帰省しました。田舎のスーパーマーケットで「水無月」を見つけ、買いました。私は水無月を食べながら単に「ケガレ」を落とすというものではなく、なぜか「バプテスマ」の本来の意味を思い出しました。

※ 注(Web担当者より)
●本文中、斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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