印刷など用に
Wordファイル
ダウンロードしたい方は
こちら

神が御子を遣わされたのは、
御子によって
世が救われるためである
―三位一体の主日

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  主の御名を宣言された
  (出エジプト記34章
   4b−6節、8−9節)

 イスラエルはシナイ山で神の顕現に接し(19章)、契約を結びます(24章)。モーセが再び山に登り、神から新たな指示(25−31章)を受けている間に、モーセの下山が遅れたことに不安を覚えた民は、アロンに頼んで金の子牛を造って神に背き、最初の契約を破ってしまいます(32章)。しかし、神は「かたくなな民」(9節)を見捨てることなく、再び契約を結ぼうとされます。
 今日の朗読に「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこにたち、主の御名(YHWH)を宣言された(5節)とあります。ここで「宣言する」と訳された動詞カーラーは多くの場合「呼ぶ」と訳されます。
 例えば、創世記12章8節に、「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだとありますが、傍線部は「主の御名を宣言された」とまったく同じです。「主の御名を呼ぶ」とは、人が「神との関わりを求めて礼拝する」ことです。しかし、今日の朗読では、人ではなく、主なる神が「主の御名を呼んだ」ということですから、「宣言された」と訳されています。
 人が「主の御名を呼ぶ」のは神との交わりを求めるからですが、神が「主の御名を宣言する」のも民との交わりを求めてのことです。イスラエルの民をエジプトから導き出すようにと神が指示すると、モーセは神の名を尋ねますが、神はそれに答えて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と述べています(出エジプト記3章14節)。これが神の呼び名でなく、神の本質を表す表現であるのは明らかであり、「どこでも、誰に対してもいつも働く」という意味です。そうであれば、「主(YHWH)」とは「民と共にいる方」のことであり、「主」を二度も繰り返したのは(6節)、民を捨て去ることのできない神の心を表していると言えます。
 確かに、今日の朗読から割愛された7節bに「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」とあるように、神は厳しく罰する方ですが、それは悪をうやむやにしない「義なる神」でもあるからです。しかし、それよりも前に主なる神は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた」方なのです(6節)。
 このような神ですから、世がかたくなであればあるほど、見捨てることができず、とうとう「独り子をお与えになったほどに世を愛しました」。それは「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためなのです」(今日の福音)。

 福音朗読:
  神はその独り子を
  お与えになったほどに
  世を愛された
  (ヨハネ3章16−18節)

 今日の福音は、ヨハネ福音書で四回しか使われていない「独り子」という用語が二度も出てくる(16・18節)重要な箇所で、御子を通して示された御父の愛について語っています。
 「神は独り子をお渡しになった」という表現は、聖書の中にしばしば登場します。この句に「私たちのために」(ローマ書8章32節)とか「私たちの罪のために」(汽灰螢鵐判15章3節)という語が加えられることがあります。これは、御父が、御子の十字架の死によって、私たちをあがなってくださった、という意味です。これに類する他の表現は、「御子が、私たちを愛して、ご自分を死に渡された」というものです(ガラテヤ書1章4節、2章20節、エフェソ書5章2節・25節)。もう一つの表現は、「御父は御子を遣わした」という表現です。これに「律法のもとに生まれた者として」(ガラテヤ書4章4節)とか「罪深い肉と同じ姿で」(ローマ書8章3節)という限定が加えられることがあります。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)。この句は傍線部の表現を一つに合わせたものです。すなわち、これは簡単な句ですが、そこには神の子の派遣と十字架上の死、つまりイエスの地上生活のすべてが含まれ、その全体が御父の愛によって説明されているのです。つまり、この句は「独り子」の強調によって、神の世への愛を、御父と御子の間の愛(相互愛)から理解しようとしています。すなわち、御父と御子の間の愛(相互愛)が深く理解される時のみ、その愛する御子すら与えた神の世への愛がそれだけ深く理解可能となります。御父は完全に御子を愛し、御子は完全に御父を愛したことがこの世が救われたことで示されました。御父と御子の愛は完全ですから一つとなります。そして、御父と御子の相互愛は一つとなって、聖霊によって、世(私たち)に注がれているのです。

 第二朗読:聖霊の交わり
  (競灰螢鵐判
   13章11−13節)

 競灰螢鵐判10−13章は、パウロが「涙ながらに書いた」手紙だと推測されています。この手紙はコリントの信徒がパウロを見下し始めた頃に書かれており、パウロの使徒としての誇りと労苦、偽使徒に惑わされるコリント教会への叱責が述べられています。今日の朗読はその結びとなっています。
 パウロは最後にコリントの信徒たちのために祈ります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(13節)と。
 「主イエス・キリストの恵み」とは「主イエス・キリストが与える恵み」であり、「神の愛」は「神が与える愛」ですから、これに照らせば、「聖霊の交わり」も「聖霊が与える交わり」と読むことができます。「聖霊が与える交わり」とは、ここでは聖霊によってキリストと一つに結ばれたキリスト者相互の交わりです。分裂と迷いの中にあるコリントの教会の人々にとって今必要なことは「交わりを与えるのは聖霊である」と知ることです。御父と御子は一つの交わりとなって私たちを愛しています。聖霊はその交わり、すなわち三位一体(父と子と聖霊)の交わりに私たちを招き、交わりに結ばれた私たちをも一つにするのです。
2023年6月4日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。