印刷など用に
Wordファイル
ダウンロードしたい方は
こちら

わたしの肉は
まことの食べ物、
わたしの血は
まことの飲み物である
―キリストの聖体A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:
  主の口から出る
  すべての言葉によって生きる
  (申命記8・2−3、14b−16a)

 今日の朗読は「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」という呼びかけで始まっています(2節)。イスラエルは飢えや渇きを経験し、「主はあなたを苦しめ、飢えさせた」旅でした。しかし、それは「あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知る」ための「試み」だったのです(2節)。
 神にとって人にパンや水を与えることも、言葉を与えることも容易であるに違いありません。しかし、それを受ける人間の側に問題があります。パンや水であれば、人の口は本能的に開かれ、自然と吸収されてゆきますが、言葉はそうはいきません。耳は聞こうと意識しないかぎり、閉じられているからです。荒れ野で経験した飢えや渇きは、マナ(荒れ野の旅の間に与えられた食べ物)によって、また東風が運んだうずら(出エジプト記16章)、あるいは岩から流れ出た水によって解消されました(出エジプト記17章1−7節)。
 しかし、解消後にも、すべきことが残されています。口にすることのできた食糧や水の背後に「主の口から出るすべての言葉」を読み取るべきなのです。だから、荒れ野の困難は誘惑なのではなく、まがいものではない真の導き手に出会い、契りを新たにすべき好機です。このチャンスを生かし、豊かになってからも、それを「思い起こす」なら、道を踏みはずさず、神との交わりに生きることができます。試練のときを思い起こすのは、「主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを知らせた神を忘れないためです。

 福音朗読:
  わたしの肉を食べ、
  わたしの血を飲む者は
  (ヨハネ6章51−58節)

 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である」(55節)。
 今日の福音で強調されていることは、イエスの体を食し、その血を飲む者とイエスとの間にある「命」の交流です。この思想はヨハネ6章の各節に表明されています。イエス自身が「天から降って(下って)来た生きたパン」です(51節)。この命は並のものではなく、「永遠の命」であって(51節、54節、58節)、イエスの肉を食べ、その血を飲むことによって得られます(54節)。それは一時的な交流ではなく、いつも相互の内に「いる」という常態的なもので(56節)、イエスによって「生きる」という結果を生みます(57節)。
 実際ユダヤでは、神との親しい交わりを回復し、それを深めるために種々の「犠牲、供え物」がささげられ、それはいつも食物(動物の肉や血、穀物)を焼くという方法をとっていました。ある供え物は、その一部を奉納者とその家族がともに食することを許されていました。それによって神との交わりがもっと深まると信じていたのです。ですから「犠牲と会食」とは別個のものではなく、全く一つのものになっていたのです。「神が食事を共にする」という「下り」と犠牲によって神に「上る」という思想とことばはヨハネ6章の説話の中にも見られます。
 イエスの「命」は、御父と共に有していますが(ヨハネ5章26節)、これが「下ること」(6章51節・33節・50節、3章13節・19節)と「上ること」(6章62節)によって、私たちは得ることができるとヨハネは記します。興味深いことに「下る」という動詞はヨハネ6章で八回も使用されますがそれ以後は全然使用されず、ただ「上る」だけに限られます(7章8節、20章17節)。聖体はイエスのこの「下る」動きによって私たちに与えられ、「上る」動きに私たちを組み入れるのです。聖体によるこの命の交流とは、そうしたダイナミックなもので、イエスの恵みと犠牲に私たちをあずからせるのです。

 第二朗読:
  私たちは大勢でも
  一つの体です
  (汽灰螢鵐10章16−17節)

 命の交流は今日の第二朗読からもうかがえます。ユダヤ人は食事の際に、「賛美の杯」を手にして、神からの恵みを感謝し、神に賛美する祈りを唱えます。しかし、キリスト者の「賛美の杯」は、ぶどう酒を与えた神を賛美するための杯では終わりません。それは「キリストの血にあずかる」(16節)という、はるかに大きな恵みを引き起こします。「キリストの血にあずかる」とは、イエスと共に死んで葬られることです。イエスの死は私たちの「罪に死んだ」のですから、イエスと共に死んだ私たちも罪に対して死に、新たな命に生きるものとされています。
 私たちが裂くパンも、空腹を満たすために、神から与えられたことを感謝して食べるパンで終わるのではありません。キリストを信じる信仰によってパンを裂くとき、それを食べる者は一つの「キリストの体にあずかる」者とされます(16節)。罪に死んで、神によって創造された新たな命に生きる者は「大勢でも、一つの体」として生きることになります。「皆が一つのパンを分けて食べる」からです(17節)。
 こうして、パンと杯にあずかる者はキリストの体として一体となり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」者になります(汽灰螢鵐12章26節)。この他者との関わりは、キリストの体における交わりですから、神が創り出す交わりです。一人ひとりが「キリストの体」であることを思い起こして生きるために、私たちはキリストの血と体にあずかります。

 今日の朗読のまとめ
 パウロは「キリストの血にあずかることではないか。…キリストの体にあずかることではないか」と述べます(汽灰螢鵐10章16節)。ここで「あずかる」と訳されたギリシア語(コイノニア)は、「人間同士の、あるいは神やキリストと人間との密接で親密な交わり」を表しますが、この(聖体による)交わりを可能にするのはイエスの「下る」動きと「上る」動きなのです。
2023年6月11日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教