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イエスは十二人の弟子を
呼び寄せ、派遣された
―年間第11主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 第一朗読:イスラエルの選び(出エジプト記19章2−6節a)
 神はシナイの山で、モーセがイスラエルに告げるべき内容を語ります。それは次の三点から成り立っています。まずは4節で「あなたたち」が体験した(見た)ことを確認しています。「あなたたち」は、神が「エジプト人にした」奇跡だけでなく、「あなたたち」を鷲の翼に乗せて「わたし(=神)」のもとに連れて来たことも思い起こさねばなりません。なぜなら、シナイの山での「わたし」との出会いによって、「あなたたち」は「神の民イスラエル」とされ、救いの計画の中で重要な使命を帯びることになるからです。
 続く5節ではイスラエルの選びが述べられますが、注意したいのはこの節の冒頭に「今」とあることです。「あなたたち」がすでに体験したこと(4節)に目を向けるなら、「今」取るべき態度は何であるかは明らかです。それは「わたし(=神)の声に聞き従い、わたしの契約を守る」ことです。そうすれば、すべての民の中で神の「宝」となります。しかし、この恵まれた地位は神の偏愛を表しているのではありません。「世界はすべてわたしのもの」とあるように、神の視野はイスラエルに限定されずに、全世界に広がっているからです。
 最後に6節では、「神の民イスラエル」が担うべき使命が示されます。彼らは確かに「聖なる国民」であり、神のものとして神によって取り分けられた国民ですが、祭司の任務を担うべき「祭司の王国」でもあるのです。一般的に祭司は神と民を結ぶ仲介者と言えますが、イスラエルは神と全世界を結び合わせる「祭司の王国」となる使命が与えられます。イスラエルの選びは全世界のための選びであり、イスラエルが受けた使命は、「新しいイスラエル」である新約の教会に受け継がれています。

 第二朗読:不信心な者のために(ローマ書5章6−11節)
 5節b−6節と8節には対応する表現が見られます。それは次のような表現です。
 神の愛(5節b)←→キリストは死んでくださった(8節)
 わたしたちがまだ弱かったころ(6節)←→わたしたちがまだ罪人であったとき(8節)

 神の愛は、キリストの死によって私たちの心に注がれ、私たちに示されました。しかも、キリストは「わたしたちがまだ弱く、罪人であったとき」に死にました。キリストがその死によって神の愛を現す対象とされた「わたしたちは」、「不信心な者」であり(6節)、さらに10節では「敵」とまで呼ばれています。
 「不信心な者」とは、契約に対する誠実さを欠いた人たちのことであり、「罪人」のことです。「罪人」という語を使うことによって、キリストの死が神からの一方的な贈り物であったことが明確にされます。キリストは神に造られた被造物としての状態から背いた者となった私たちのために死んだのです。神の愛はそれを受けるに値しない者に向けられる愛です。神が愛するのは、愛が向けられる対象に何かの価値があるからではなく、神自身が愛したいからに他なりません。
 「キリストの死が類例のないもの」であることは、6節と8節に挟まれた7節で、人間が他者のために死ぬ場合が取り上げられることによって強調されます。人間が他者のために命を捨てる死は、自分にとって価値ある者のためですが、キリストの死はそのような死ではありません。キリストの死は不信心な者を救うためであり、「敵」のための献身です。
 9−11節では「今や」が二度も繰り返されています(9節・11節)。この「今や」は「類例のないキリストの死」がもたらした「今」を指しているのは明らかです。その「今」によって私たちは「義とされ」(9節)、「神と和解させていただいた」のです(10−11節)。

 福音朗読:「新しいイスラエル」に与えられた使命(マタイ9章36節−10章8節)
 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、派遣されます。十二という数字はイスラエルの十二部族に基づいています。十二使徒から始まる新約の教会のうちに、「新しいイスラエル」が実現しています。
 汚れた霊に対する権能を弟子に「お授けになった」のはイエスです(1節)。弟子はそれを「ただで受けた」のです(8節)。イエスは「権能」を与え、弟子たちはそれを「賜物」として受け取ります。こうして十二人は「天の国は近づいた」ことを告げ知らせるようにと命じられます。
 この告知は言葉だけでなく、業によっても示されます。弟子たちが悪霊を追放し、癒しを行う力が与えられたのは「天の国は近づいた」ことを具体的に示すためです。イエスは彼らに、今は「異邦人の道に行ってはならない」と命じ、異邦人宣教を禁じています(5節)。しかし、マタイ28章19節になると「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と指示して、異邦人宣教の道を開いています。「救い」はまずユダヤ人に告げられ、それから異邦人に広げられてゆきます。イエスが呼び寄せた十二人に代表される教会(=新しいイスラエル)は、イエスと同じ使命と権能を受け継いで派遣され、今も天の国の到来をすべての人に告げ知らせます。それが教会(=新しいイスラエル)の使命だからです。

 今日の朗読のまとめ
 神がイスラエルを選んだのは、イスラエルを偏愛しているからではありません。むしろ、諸国民のために神に執り成しをする「祭司の王国」の任務にあたらせるためです(第一朗読)。
 しかも、不信心な者を贖うために御子を十字架に送り、和解を申し出たところに神の愛が示されています(第二朗読)。このような愛を受け、「新しいイスラエル」として「祭司の王国」としての任務が私たちに与えられています(福音朗読)。神が私たちを選んだのは、エリートとしての選びではなく、和解の言葉を宣べ伝えるための選びです。神の愛は一部の人ではなく、すべての人に向けられているからです。
2023年6月18日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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