クーラー
主任司祭 ヨハネ・ボスコ 林 大樹
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、9時ごろに行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。夕方になって、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは」。主人はその1人に答えた。「友よ、あなたに不当なことをしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる(マタイ20章1節−16節)。
1 主人(父なる神)は5時まで仕事にありつけず、明日はどうやって一家を養っていこうかという不安の中で過ごした人を憐れみ、賃金(恵み)を贈りました。確かに労働時間ということを考えれば、夜明けから働いた人と夕方5時から働いた人が同じ賃金(恵み)というのは大変おかしいのですが、別の次元で考えますと、夜明けから働いた人は翌日家族を少なくとも養える安心感の中で働いています。5時からの人は確かに働いていませんが、1日雇ってくれる人がいないのであっちをうろうろ、こっちをうろうろして明日どうしようかと不安感の中で夕方5時まで過ごしたのです。このように視座を換えてみると、どちらが大変かということは一概に言えないのです。大変さの種類が全然違うということです。
2 私が2010年まで着任した富士吉田教会には、聖堂、司祭館、信徒館、どこにもクーラーがありませんでした(今は司祭・信徒館を新築し、クーラーがあります。私の着任時は、その資金を貯めていました)。小さな教会なのでいつも電気代を節約していました。標高800mの富士吉田市でも温暖化の影響で夏は30度を超えるようになりました。ある夏、幼稚園から職員室にクーラーを設置したいと申し入れがありました。幼稚園は教会より貯えがあったので、私は園長として承諾しました。クーラーは室内の熱を室外へ運びます。私の部屋の窓を開けると、職員室のクーラーの室外機がこちらを向いています。幼稚園の先生がクーラーのスイッチを押しました。私の部屋に熱風が入ってきました。私はたまらなくなり(富士急)富士山駅にあるスーパーマーケットに涼みに行きました。
その後、私は金沢教会に着任しました。念願がかないクーラーがある教会です。大きな教会なので電気代の支払いを心配する必要がありません。2016年6月、私は(当番がまわってきただけなのですが)横浜市幼稚園協会金沢支部の支部長になりました。週に3度も横浜駅北口にある「ようちえん会館」で会議や研修会があります。暑い夏の昼間、私はクーラーのない戸外に出て行くことになりました。
そして今、私はクーラーがある鍛冶ヶ谷教会に着任しています。横浜市幼稚園協会栄支部の仕事も輪番制です。昨年から当番がまわって私は支部長になりました。また、私は(金沢のときより回数が減りましたが)クーラーのない戸外に出て行くことになりました。
3 人間は、自分が経験した苦しさについてはよく分かるのですが、未経験の苦しみに対しては無理解になり、これを裁いてしまうことが多いと思われます。人間の目では、(譬話の)夜明けから働いた人と夕方5時から働いた人が同じ賃金(恵み)というのはおかしいと決めつけてその人を裁こうとしますが、父なる神は1人ひとりの人間の悲しみや重みを知り愛してくださる方なのだとイエスは教えるのです。