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自分の十字架を担って
わたしに従わない者は、
わたしにふさわしくない。
あなたがたを受け入れる人は、
わたしを受け入れる
―年間第13主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   10章37−42節


 今日の福音の文脈と構成
 マタイ10章5−42節は、イエスが弟子たちを派遣するに当たって述べた「派遣説教」であり、今日の福音はこの説教の結びになります。

1 10章5−15節
 十二人を派遣する

  年間第11主日の福音(1−8節)
2 10章16−25節
 迫害を予告する

3 10章26−31節
 恐るべき者

  年間第12主日の福音(26節〜)
4 10章32−33節
 イエスの仲間であると言い表す

  年間第12主日の福音(〜33節)
5 10章34−39節
 平和ではなく剣を

  今日の福音(37節〜)
6 10章40−42節
 受け入れる人の報い

  今日の福音(〜42節)

 この説教に先立って、イエスは自分が持つ権威を弟子に分け与えます(1−4節)。5−15節では、宣教すべき場所と宣教の際の諸注意を語り、16−25節では、「イエスの名のために」(22節)受ける迫害を予告します。26−31節では「恐れるな」と励まし、32−33節では「人々の前で自分をわたしの仲間だと言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と約束します。こうして、今日の福音に入って行きます。

 〔語句の解説〕 38節「自分の十字架を担って」。直訳「彼の十字架を受け取る」。「担って」と訳された動詞(ラムバノー)は、41節では「(報いを)受ける」と訳されています。
 普通に、「十字架を背負う」と言うときには、別の動詞が使われます。例えば、マタイ16章24節「自分を捨て、自分の十字架を背負って」では、アイロー(取り上げる)という動詞であり、ルカ14章27節「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」では、バスタゾー(取り上げて背負う・我慢する)という動詞です。このような動詞を用いるのは、十字架刑を受ける者は自分の十字架の横木を背負って刑場まで運ぶという習慣があったからだと考えられています。「取り上げて背負い、我慢する」といった意味合いの動詞を使うことによって、十字架上で死んだイエスと同じ苦しみを担う覚悟が弟子に求められています。
 しかし、ここでは「受け取る」を意味する動詞が使われています。十字架を「我慢して担う」という側面よりも、イエスから「受け取る」という側面を強調したいのかも知れません。しかも、41節では同じ動詞を使って、「報いを受ける」と言われていることから考えると、十字架の苦しみよりも、弟子がもたらす報いの大きさとの関連を力説しようとしているのだと思われます。

 前半:わたしのために命を失う者は(37−39節)
 イエスよりも「父や母、息子や娘を愛する者」とは、「自分の十字架を担って(受け取って)イエスに従わない者」のことであり、このような者が「自分の命(魂)を得よう(見つけよう)とする者」と呼ばれています。
 「自分の命(魂)」とは、自分自身のことであり、自分が大切にする人々を指します。家族への愛は大事なものですが、家族を「イエスよりも」愛することは「イエスに従わない」ことに通じ、それは命への道ではない、とイエスは教えます。なぜなら、イエスとの関わりを欠いているからです。ですから、39節の「自分の命(魂)を得ようとする者」とは、イエスとの関わりを持たずに生きる者のことです。逆に「わたし(イエス)のために」自分の命(魂)を失う者は、生きるべき命を見つけます。「わたし(イエス)のために」という根拠をもつとき、父や母、息子や娘、すなわち血縁との関わりを凌駕(りょうが)する新たな関わりが開示されるのです。

 後半:報いを決して失わない(40−42節)
 後半では、「あなたがたを受け入れる人」、つまり宣教者の言葉を聞いて福音を受け入れた(信じた)者への「報い」を語ります。42節では、「受け入れる人」の代わりに、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」と言い換え、宣教者を受け入れるという行為を具体的に述べています。たった一杯の水が「報い」を保障するほどに、宣教者の役割は貴重なのです。
 「必ずその報いを受ける」(42節)を直訳すると、「彼の報いを決して失わない」となります。この「失う」は、39節の「わたし(イエス)のために命(魂)を失う者」と同じ動詞です。宣教者はイエスのために命を「失う」ことによって、神からの命を得た(見つけた)者のことですから、その宣教者を受け入れた(=福音を信じた)者は、神からの「報いを決して失わない」のです。

 今日の福音のまとめ
 「派遣説教」の結びは「イエスはこう命じ終わって弟子たちを宣教に派遣した」とはならずに、「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」(11章1節)となっています。つまり、宣教に出かけたのは弟子ではなく、イエス自身なのです。マタイでは、イエスの在世中は、神の福音を宣教するのはイエス一人の業と見なされています。だから、「派遣説教」の中で、弟子の宣教活動そのものよりも、むしろ宣教を通してイエスを証しし、その弟子となって行くキリスト者の姿を描いています
 今日の福音でも「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(37節)と断言しますが、「派遣説教」の中でイエスは、宣教者とイエスとの結びつきを非常に強調します。宣教者は、イエスに「ふさわしい」者となることによって、人々に神を示します。人々が宣教者を通して神を知るとき、生きるべき命と家族を見いだすことになるのです。
2023年7月2日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
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