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わたしは柔和で謙遜な者である
―年間第14主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マタイによる福音
11章25−30節
拒絶と無理解の中で
今日の福音で、イエスは神に全幅の信頼を寄せて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と賛美します(25節)。しかし、イエスはユダヤ人から拒絶され、神への賛美とはおよそ遠いと思われる状況に置かれています。
11章17節には「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」とあります。これは、「結婚式ごっこ」とか「葬式ごっこ」への誘いが無視されたことをなじる子どもの遊び歌です。この歌を引用することによって、洗礼者ヨハネとイエスが告げた天の国の到来を人々が無視したことを表しています。
11−12章では、イエスに対するユダヤ教指導者からの中傷(11章19節)、批判(12章2節)、殺害計画(12章14節)が述べられます。今日の福音の直前の11章20−24節では、イエスは奇跡を見ても悔い改めなかった町を叱りつけています。この拒絶と無理解の中で、イエスはなぜ神を賛美することができるのでしょうか。
神が隠した(25−27節)
神が隠そうとした「これらのこと」(25節)とは、イエスこそが神の啓示者(神を現す者)であるということです。そうだとすれば、「知恵ある者や賢い者」とは、イエスを認めようとしないユダヤ人、その中でも特にファリサイ派の人々を指しています。他方、イエスが神の啓示者であることを神が現した「幼子のような者」とは、27節から見て、イエスが神を「示そうと思う者」のことです。
「神が隠した」から、ユダヤ人はイエスを拒絶します。彼らはイエスをメシアと認めず(11章16−19節)、イエスの行う奇跡を見て悔い改めようとしませんでした(11章20−24節)。しかし、イエスはユダヤ人から拒絶されても、神を賛美します。拒絶と無理解の中にあって、イエスが賛美をささげることができるのは、この拒絶が「知恵ある者や賢い者には隠す」という父(神)の「御心に適う」ことだと知っているからです。知恵ある者や賢い者は、自分の力で救いを達成しようとする(=律法を遵守する)あまり、イエスが示す天の国の福音を受け入れる(=信じる)ことができません。しかし、「幼子のような者」は神に信頼するしか方法はありません。神が選んだ救いの道は、そのようなものでした。
「すべてのこと」、すなわち父(神)のことばや振る舞い、そして人間に対する思いは、父(神)からイエスに託されています(27節)。父(神)を知るには、イエスを通るほかに道はありません。だから、子であるイエス以外に父(神)を示すことのできる者はいません。
〔語句の解説〕
28節「疲れた者、重荷を負う者」。25節「知恵ある者や賢い者」は、イエスが神を現す者であることを認めないファリサイ派の人々を指しています。「疲れた者、重荷を負う者」とは、ファリサイ派の人々が主張する律法遵守の教えに押しつぶされた人々を指しています。
29節「軛」。「軛」はもともと家畜の首にかける曲がった木材を指します。そこから奴隷としての奉仕や民に要求される服従を表し、抑圧のシンボルとなっていきます。しかし、知恵文学の一つであるシラ書では、知恵の前にひれ伏して教えを乞う態度が「軛を負う」と表現され(51・26)、「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」(哀歌3・27)という一般的教訓にもこの語が用いられています。またエレミヤ書2章20節では、民が神の前にひれ伏して教えを乞うという態度が「軛」と表現されています。さらに「神の軛」と言い換え「トーラーの軛」と表現し、神の意思の表れである律法の前にひれ伏して教えを乞うという意味で用いるようになりました。イエスが与える「軛」は抑圧ではなく、神の命への解放につながります。
29節「謙遜な者」。直訳「心において低い」。箴言16・19に「貧しい人と共に心を低くしている方が、傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい」とあります。「心を低くする」ことは「貧しい者」の在り方です。ヘブライ語に遡って考えれば、「貧しい者」と「柔和で」とは同じ言葉にたどり着きます。「心において低い」とは、圧迫されて身を屈める苦しみの中で、神に信頼して身を低くすることを意味します。イエスはまさにそのような方なのです。
わたしの軛を負いなさい
(28−30節)
父(神)の「御心に適うこと」を知るイエスは、確信をもって、重荷を負う「あなたがた」に呼びかけ、「休ませてあげよう」と語ります(28節)。「軛」とは、人間が生きるようにと神が与える指示に、ひれ伏して教えを乞うという態度を指します。当時のユダヤ教指導者も、そのような意味での「軛」としての律法の遵守を求めていました。律法を実行していると誇る彼らから見れば、それを守れない弱い者(罪人)は神の救いから排除されるべき者でした。
こうして彼らが教える「軛」は神と人とを結ぶものにはならず、むしろ圧迫となってしまったのです。イエスはこのような「重荷」を負わされて疲れ果てた人々を招いて、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と呼びかけます。「柔和で謙遜な者」とは、神の憐れみに信頼を寄せ、自分の強さを誇らない人です。イエス自身が身をもって示したこの生き方の中に安らぎがあります。イエスの「軛」が負いやすく軽いのは、神の思いを知るイエスが、その人の横に立って共に背負ってくれるからです。
神の思いを知っているイエスのもとに来るなら、圧迫に押しつぶされた「疲れた者」とはなりません。「柔和で謙遜な者である」イエスが神の思いを知らせてくれるからです。
2029年7月9日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
●本文の中盤「語句の解説」の各段落の冒頭で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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