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種蒔く人が種蒔きに出て行った
―年間第15主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   13章1−23節


 舟に座るイエスと
  岸辺に立つ群衆(1−2節)

 今日の福音は「その日、イエスは家を出て」と語り始めます。これは、その後に続くたとえの冒頭の「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(3節)という言葉と重なっています。「出て行く」イエスこそが種蒔く人だからです。
 イエスは舟に座って、岸辺に立っている群衆に向かって話します。「舟に座る」イエスと「岸辺に立つ」群衆との間には、越えることのできない隔たりが横たわっています。イエスはこの隔たりを間に挟んで「たとえ」を投げかけます。
 〔語句の説明〕 「たとえ」と訳されたギリシア語パラボレーはヘブライ語のマーシャールに遡ります。この語は「比喩・格言・謎・寓喩(ぐうゆ)」などの広い意味を持っています。パラボレーの語源は「側に投げる」ですが、イエスが舟から投げた言葉は、これを聞いて理解する者には天の国の奥義を明かす「たとえ」ですが、他方、これを理解できない者にとっては「たとえ」は「謎」でしかないという二重性を持ちます。
 ところで、18−23節は「たとえ」の寓喩的な解釈であり、イエスではなく、初代教会による解釈だろうと考えられています。寓喩的解釈とは、たとえに登場するいくつもの要素が―たとえば「道端に落ちた種」とか、「鳥」(マタイ6章26節)とか、が―それぞれ何にあたるかを説き明かすような仕方の解釈のことです。しかし、イエスが語ったたとえの特徴は、たとえ全体がある一点に鋭く集中するということにあると言われます。
 18−23節がイエスによる解釈ではないとされる、もう一つの理由は、3−9節のたとえでは、様々な種の運命に焦点が当てられているのに対して、18−23節では、種(御言葉)そのものではなく、種(御言葉)を蒔かれた人間の側に焦点が移されていることです。「たとえ」も「解釈」もイエスによって語られていたとすれば、このようなズレが起こることは考えられません。そこで、18−23節の寓喩的な解釈は、イエスの「たとえ」を教会生活上の戒めとするために、初代教会が行った再解釈の結果だと説明されるわけです。

 種を蒔く人(3−9節)
 その日、イエスは家を「出て」(1節)、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(3節)と語り始めます。「出て行く」イエスこそが種蒔く人です。
 パレスチナ地方では、まず種を蒔いてからその後で土地を耕します。そのため無駄になる種も数知れず、収穫の率も決して良くはありません。しかし、農夫は豊かな実りを信じて種を蒔き続けます。3節の「蒔く人」は動作の継続や反復を表す現在分詞形です。ですから、「蒔き続けている人」という意味になります。
 そのような農夫と同じように、イエスも徒労に終わるかのように見える現実の中で、豊かな実りを信じて宣教を続けます。宣教活動はすぐに目に見える成果で報われるとは限りません。しかし、宣教者は、神の御言葉は必ず豊かな実りをもたらすと信じて自らを励まします。イエスは、自分の姿のうちにそれを示しています。

 なぜ、たとえを語るのか
  (10−16節)

 弟子たちが「なぜ、あの人たち(群衆)にはたとえを用いてお話しになるのですか」(10節)と問うと、イエスは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13節)と答えます。イエスは弟子にも群衆にも「たとえ」を話しますが、弟子には天の国の奥義を明かす真理の言葉となるのに、群衆には「たとえ=謎」で終わってしまいます。この違いは、「天の国の秘密を悟ること」へと開かれているかどうかにかかっています。しかし、それは人間自身の努力によるのではなく、むしろ神の恵みによるものです。だから、「天の国の秘密を悟ることが許されている」(11節)と表現されています。
 イエスは誰に対しても分け隔てなく、天の国の秘密を明かす「たとえ」を語っていますが、イエスに向かってかたくなに心を閉ざす群衆にはそれが「謎」で終わってしまいます。そのような群衆の姿を、イザヤ書の言葉を引用して指摘します(14−15節)。イザヤ書では、神は民の心を鈍くして、神を知ることができないようにすると言われています。

 御言葉を聞いて実を結ぶ
  (18−23節)

 この段落で特に「悟らない=悟る」という言葉を用いて対比させようとしているのは、道端に蒔かれた者(19節)と、御言葉を聞いて悟り、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ者(23節)です。そして、道端に蒔かれた者が「御国の言葉を聞いて悟らない」動機は、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」(13節)群衆と同じです。ここからして、今日の福音で「御国の言葉を聞いて悟らない者」と、イエスが「たとえ」を話しても「謎」で終わってしまった群衆と同定することが許されます。19節の「心の中に蒔かれたもの」とは4・5・7・8節と同じ中性形で「種」(御言葉)を指しています。そして、「御国の言葉を聞いて悟らない者」は「悪い者が来て、心の中に蒔かれたもの(御言葉)を奪い取る」(19節)から分かるように、明らかに信仰から退転するキリスト者の一類型を描いています。
 ところで、イエスの「たとえ」によって弟子に与えられる「天の国の秘密」を悟る恵みとは一体何でしょうか。それは、イエスがマタイ福音書の中で語っている12の「天の国」のたとえ(種を蒔く人とタラントンのたとえを含む)の中で共通して教えられること、すなわち、信仰の逆説です。イエスと結ばれる「幼子のような(=小さい)」弟子こそ、イエスの「たとえ」を受けて、父の愛を悟り、その交わりの中に入れられること、つまり神の恵みは「人間の賢さ」を一切空しくする、ということなのです。
2023年7月16日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教