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刈り入れまで、両方とも
育つままにしておきなさい
―年間第16主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   13章24−43節


 天の国の三つのたとえ
  「毒麦」「からし種」「パン種」
   (24−33節)

 「毒麦のたとえ」のポイントはどこにあるのでしょうか。27−30節に「言う・話す(直訳)」という動詞が5回現れます。最初の二つ(27節「言った」、28節「言った(直訳 話していた)」が過去形で書かれており、次の二つ(28節「言う」、29節「言った(直訳 話す)」が現在形、最後の一つ(30節「言いつけよう(直訳 わたしは言うだろう)」は未来形です。
 25節以降の動詞はすべて過去形ですので、最初の二つが過去形であるのは当然と言えます。30節の「直訳 わたしは言うだろう」が未来形であるのも、終末の裁きのことを語る文脈に出て来るので当然と言えます。そうすると、過去形と未来形に挟まれている現在形がいっそう際立ってきます。28節の「言う」と29節の「直訳 話す」は、文脈から見れば当然過去形となるはずですが、それを無視して現在形で書いたのは、そこに強調点を置きたかったからでしょう。「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は〔直訳 話す〕。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」。今は、麦が一緒に取り除かれないようにと、主人(=神)が毒麦を忍耐する時です。「刈り入れの時」には、毒麦は必ず焼き尽くされます。ですから、天の国に招かれた者は今、毒麦への裁きを神にまかせることを知っています。
 「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」は対(つい)になっています。小さな「からし種」もわずかな「パン種」も想像できないほど大きくなり、全体を膨らませます。天の国は豊かな実りを獲得します。

 たとえを用いて語る
  (34−35節)

 マタイでは、イエスのたとえを聞き、そこに「天の国の秘密」を聴き取る者が「弟子」であり(13章11節)、聴き取ることができない者は「群衆」です。24−33節の天の国の三つのたとえを聞いているのは「彼ら」です(31節)。「彼ら」と呼ばれていた聴衆が、34節では「群衆」に変わります。イエスのたとえを聞く「彼ら」は弟子にもなれるし、「群衆」にもなれたのですが、結局は「群衆」となってしまいました。イエスのたとえを聴き取ることができず、「謎」で終わったからです(13章13節)。

 毒麦のたとえの説明
  (36−43節)

 初代教会は世の終わりに下される裁きという観点から、「毒麦のたとえ」を解釈しています。イエスを信じる教会は、悪(毒麦)に対して憐れみ深く忍耐するイエスの姿勢に疑問をはさまずに、未来に目を向け、「太陽に輝く」日を待ちます。

 今日の福音のまとめ
 今日の福音を含むマタイ13章は次の三つのグループで展開されています。
第一グループ(1−23節)
  種を蒔く人のたとえ
   (1−9節)
  たとえを用いて話す理由
   (10−17節)
  種を蒔く人のたとえの説明
   (18−23節)

第二グループ(24−43節)
  天の国についての三つのたとえ
   (24−33節)
  たとえを用いて語る
   (34−35節)
  毒麦のたとえの説明
   (36−43節)

第三グループ(44−52節)
  天の国についての三つのたとえ
   (44−50節)
  天の国のことを学んだ学者
   (51−52節)

 第三グループでは「たとえの説明」が欠けていますが、これは第三グループでのイエスは群衆を除く弟子たちに語ったとされており(36節)、弟子たちは、たとえの説き明かしを必要としない「天の国のことを学んだ学者」となっているからです。
 このように三つのグループは同じ構成を持っていますが、単純な繰り返しでは終わらずに、なにがしかの発展が見られます。まず、それぞれのグループの最初に置かれたたとえに見られる変化ですが、第一グループのたとえ(種を蒔く人のたとえ)のテーマについて明記はされていませんが、第二グループの三つのたとえも、第三グループの三つのたとえも、「天の国は次のようにたとえられる」とか、「天の国は…に似ている」とかで始まっており、テーマが天の国であることが明確に表現されています。ただし、第二グループのたとえの興味は、天の国が実現してゆく過程に置かれているのに対して、第三グループのたとえの中心は、天の国が人にもたらす結果に置かれていると言えます。
 それぞれのグループの二番目の要素についても進展が見られます。第一グループでは群衆は「聞くには聞くが、決して理解しない」人たちですが、弟子たちには「あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と語りかけ、聞くようにと励ましています。しかし、第二グループになるとこの対比が消え、さらに第三グループでは群衆が姿を消し、弟子たちを「天の国のことを学んだ学者」と位置付けています。
 もちろん、群衆が耳を開いて、イエスの励ましの言葉に力づけられて、たとえの語る神秘を理解するなら、誰もが弟子とされ、「天の国のことを学んだ学者」とされるはずです。マタイ福音書13章が求めているのは、私たちが群衆でとどまらずに、弟子への道を歩むことだと言えます。
2023年7月23日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
●本文序盤で「現在形」を下線+斜字(イタリック)にしております。原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+斜字で代用させていただきました。
 また、本文で斜字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
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