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宝を見つけた人は
持ち物をすっかり売り払って
その畑を買う
―年間第17主日
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マタイによる福音
13章44−52節
今日の福音を含むマタイ13章は次の三つのグループで展開されています。
第一グループ(1−23節)
↑先々週の福音
(ア) 種を蒔く人のたとえ
(1−9節)
(イ) たとえを用いて話す理由
(10−17節)
(ウ) 種を蒔く人のたとえの説明
(18−23節)
第二グループ(24−43節)
↑先週の福音
(ア) 天の国についての
三つのたとえ(24−33節)
「毒麦のたとえ」
「からし種のたとえ」
「パン種のたとえ」
(イ) たとえを用いて語る
(34−35節)
(ウ) 毒麦のたとえの説明
(36−43節)
第三グループ(44−52節)
↑今日の福音
(ア) 天の国についての
三つのたとえ(44−50節)
「畑に隠された宝のたとえ」
「高価な真珠のたとえ」
「良い魚と悪い魚のたとえ」
(イ) 天の国のことを学んだ学者
(51−52節)
天の国のたとえ:
「畑に隠された宝」「高価な真珠」
「良い魚と悪い魚」(44−50節)
今日の福音も先週の福音と同様に、三つの「天の国のたとえ」が語られています。先週の福音(第二グループ)は、最初に「毒麦」、次に対(つい)をなす「からし種」と「パン種」という順番でした。それが今日の福音では、最初に対(つい)をなす「畑に隠された宝」(44節)と「高価な真珠」(45−46節)が語られ、最後に「良い魚と悪い魚」(47−50節)が語られています。この最後のたとえは先週の福音の「毒麦」に対応しています。
44・45・47節の冒頭は「天の国は次のようにたとえられる」という同じ表現で始められています。これは原文では「天の国は似ている」という表現になります。
「畑に隠された宝」と「高価な真珠」は内容だけでなく、次の表現はほとんど同じです。「持ち物をすっかり売り払って、その畑(それ)を買う)」。対(つい)になったたとえですから、この同じ表現の部分に主眼点があります。つまり、天の国を見いだした者は持ち物をすべて売り払って、それを買いたいと思うほど、天の国は人に「喜び」を与え(44節)、「高価(直訳 貴重)」なものなのです(46節)。
この対(つい)をなすたとえには相違点もあります。「持ち物をすっかり売り払って、その畑(それ)を買う)」。原文では、44節は現在形ですが、46節は過去形です。次に、「畑に隠された宝」では、隠された宝を「見つけた人」とあり、それが偶然であったことが示されています。それに対して、「高価な真珠」では、「商人が探している」とありますから、探し続ける努力が前提とされています。三番目は、宝を見つけるのは自分の畑を持たない貧しい小作人ですが、高価な真珠を買う人は、探し歩いているのですから金持ちと言えます。その人が貧しい人であれ、豊かな人であれ、それが偶然であれ、探すという努力をした結果であれ、過去であれ、現在であれ、天の国はいつもすべての人を招いているのです。
「良い魚と悪い魚のたとえ」は「毒麦のたとえ」と対応していますが、相違点もあります。「毒麦のたとえ」では、毒麦を神が忍耐している現在に視点が置かれていました。「良い魚と悪い魚のたとえ」も、現在は「いろいろな魚を集める」時と捉えていますが、49−50節にあるように、「世の終わり」に起こる選別に強調点が移っています。
天の国のことを学んだ学者
(51−52節)
「みな分かったか」の質問に対し、弟子たちははっきりと肯定で答えます。先々週の福音(第一グループ)において、聞いても悟ることができない群衆(13節・15節)と天の国の秘密を理解することができる弟子たち(11節)を対比的に置き、悟ることが弟子としての基本条件であるということを示しましたが、結びにおいて、弟子たち自身の言葉で弟子たちがイエスの教えを理解したことを表明します(51節)。
これはマタイの弟子像をよく表していますが、ここからさらに一歩すすめて、特権を持つ(天の国の現実から新しいものと古いものを取りだす)弟子たちを「学者」と呼びます(52節)。マタイの教会に、伝承されたイエスの言葉を専門的に解説して教える学者たちがいたことは、マタイ23章34節からも推定されます。マタイは学者たちの原型を、イエスから直接教えを受け、「分かりました」と答えた(51節)弟子たちに見ています。「一家の主人」がイエスを暗示するとすれば、学者は弟子に、弟子はイエスに似ていることになります。
今日の福音のまとめ
畑に隠された宝のたとえ、高価な真珠のたとえ―天の国は人に「喜び」を与え、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと人が願うほどに「高価な(直訳 貴重な)」ものです。
しかし、良い魚と悪い魚のたとえ―天の国は、海へ投げ入れられ、あらゆる魚を寄せ集める網に似ています。しかし、その網は岸に引き上げられると、良いものは入れ物へ選り分けられ、悪いものは外へ投げ捨てられます。今、天の国はあらゆる魚を寄せ集める網のように、すべての人に開かれています。しかし、その中には「悪いもの」がいます。
「悪いもの」は49節では「悪い者ども」と言い換えられています。「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえとの関連で読むなら、ここでの「悪い者ども」の「悪」とは、倫理的な悪ではなく、持ち物をすっかり売り払ってでも手に入れたいと願う天の国に気づかないことだと考えられます。今、天の国はすべての人に開いていますが、終末の日、天の国にふさわしくない人が明らかにされます。
2023年7月30日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
●本文で下線を引いている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、下線で代用させていただきました。ご容赦を。
また、スマートフォンでも読みやすいよう、原文よりも改行を増やしたり、字下げをしたりしております。
原文どおりのフォント切替やレイアウトでご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。