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わたしに命令して、
水の上を歩いて
そちらに行かせてください
―年間第19主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   14章22−33節


 語句の解説
 22節■「舟」。「舟」は教会を表し、嵐の海は教会に対して戦いを挑むカオス(神に敵対する混沌)の力を表します。今日の福音は、初代教会の宣教の生活を土台にして読むことが可能になります。宣教にはさまざまな困難がつきまといます。迫害があり、無理解があり、教会内に争いが起こることもあったでしょう。宣教がなかなか進まないという状況の中で、マタイは、イエスと共に生活していたときにガリラヤ湖で起こった出来事を思い起こし、それを福音として書き記したと考えることもできます。
 23節■「山」。山は祈る場所、神と出会う場所です。旧約のモーセはひとりで山に登りましたが、同じようにイエスもひとりで山に登ります。マタイでは、イエスは「新しいモーセ」として描かれています。マタイの教会はさまざまな課題や争いにもまれて苦しんでいますが、その中にあって、「私たちには、山に登って神と特別に親しく交わる方(かた)が山から降りて来て、共にいてくださる」という事実は大きな慰めになると同時に、信仰告白にもなったと思われます。
 23節■「夕方」。洗礼者ヨハネの死を知らされ、やがて自分も弟子たちと別れなければならないことを予感したイエスは、自分を慕って人里離れた所に集まった大勢の群衆をパンで養いました(マタイ14章13−21節)。それは、イエスがいつも共にいて、いのちの糧を与えるということを弟子に悟らせるためでした、このパンの出来事も、「夕方」であったことが明記されています(14章15節)。聖書では、夜の闇は神の力が顕現することの伏線となります。それで、マタイは「夕方」であったことをここでも明記します。
 24節■「スタディオン」。一スタディオンは約185メートルにあたります。
 25節■「夜が明けるころ」。直訳「夜の第四の夜警時間」。ローマでは午後6時から朝6時までを四つに区切って夜警の交替時間を表しました。ですから、「第四の夜警時間」は午前3時から6時を指しています。旧約聖書では、明け方は神が救いの手を差し伸べる時刻とされています(イザヤ書17章14節、詩編46・6)。
 25節■「湖」。直訳「海」。ギリシア語のサラッサが用いられています。「五千人に食べ物を与える」という奇跡を伝えるパンの出来事(マタイ14章13−21節)は、荒れ野をさ迷うイスラエルに神がマナを与えたという出来事を踏まえています(出エジプト記16章)。今日の福音はそれに対応して、イスラエルの民が紅海を渡った出来事を下敷きにしているのかも知れません(出エジプト記14章13−31節)。イエスが歩いた「湖」も、紅海の「海」もギリシア語では同じサラッサです。
 旧約聖書では、「海」は神の創造の力に敵対する原初の水、混沌と結び付いています。ですから、象徴的には、「海」は神に敵対するあらゆる力を表すと見ることができます。「舟」によって表された教会は「海」の中を行きます。神に敵対する力が猛威をふるう場が「海」ですから、舟(教会)はなかなか進まないということが起きます。
 そこに「海」の上を歩くイエスが近づいてきます。旧約聖書では、神の力は、カオス(混沌)の象徴であるである海を支配する力と考えられています。モーセに導かれてイスラエルの民が紅海を渡ったとき、神が共にいて敵の力を打ち砕いたように、「海」の上を歩いて弟子に近づくイエスは、神が共にいることを示します。

 27節■「安心しなさい」。直訳「勇気を出しなさい」。「勇気を出す」と直訳した動詞は名詞サルソス(勇気)からの派生語です。ファラオの軍隊に追撃されておびえるイスラエルの民に(出エジプト記14章13節)、またシナイ山での神の顕現が、雷鳴や稲妻や角笛の音という恐れを引き起こすしるしと共に起こったときに(出エジプト記20章20節)、モーセも民に同じ言葉を語っています。
 27節■「わたしだ」。直訳「私で ある」。申命記32章39節に見られるように、旧約聖書は神の顕現を表す定型句として「アニー・フー(私こそそれである)」を用います。この句は七十人訳旧約聖書では「エゴー・エイミ(私である)」と訳されていますが、ここではこれが用いられています。これは、人に姿を顕した神が、自分が神であることを表明するための表現です(イザヤ書41章4節、43章10・13・25節、46章4節、48章12節、51章12節、52章6節)。

 今日の福音のまとめ
 イエスとペトロが舟に上がると、強い風は静まりました(32節)。イエスが海の上を歩き、風を静めたのは、混沌を支配する神が共にいることを知らせ、イエスは「神の子」であると告白する信仰(33節)へと導くためです。
 「疑う」(31節)と訳されたギリシア語はディスタゾーですが、この語はディス(二度・二重)から派生した動詞であり、「あることに関して二番目の(=別の)考えを持つ」の意味だと思われます。ここでのペトロは「水の上を歩いてもイエスのもとに行きたい」と考える一方で、「強い風に気づいて怖くなる」という別な思いを持ちました。このように思いが二つに分かれた状態をこの語ディスタゾーは表しています。しかし、このような状態であれば、人間には常に見られることではないでしょうか。
 しかし、ディスタゾー状態は決してマイナスで終わりはしません。ペトロはイエスに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)と確かに叱られましたが、イエスに助けを求めて叫べたので、「本当に、あなたは神の子です」という告白に至ることができました(32節)。 
 ディスタゾー状態があるから、次の段階が開かれます。そのためには、神を信じて叫ぶこと、それが必要となります。
2023年8月13日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 「語句の解説」の各段落の冒頭で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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