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婦人よ、
あなたの信仰は立派だ
―年間第20主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マタイによる福音
15章21−28節
今日の福音は三つの段落に分けることができます。第一段落(A)と第三段落(A´)が対応しています。Aはカナンの女性の願いを述べ、A´はその成就を述べています。これらに挟まれる第二段落がBです。ここでは、カナンの女性の願いを拒否するイエスの態度と言葉が述べられています。
第一段落(A):
主に叫ぶ(21−22節)
ティルスは地中海に面したフェニキアの町で、カルメル山から55キロほど北にあります。シドンはティルスの北方35キロに位置するフェニキアの港町です。両方とも異邦人の町です。イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と宣言します。しかし、イエスがティルスやシドンの地方に旅行したならば、それはイスラエルの家の失われた羊に福音を伝えるためではなく、異邦人のためとなります。
新共同訳は「この地に生まれたカナンの女が出て来て」と訳しています(22節)。ある学者は、イエスはまだイスラエルの地にいて、これからティルスとシドンの地方に行こうとされたとき、カナンの女性が国境を越えてやって来た、という意味に解しています。また、ある注解書は、イエスはティルスとシドンの政治上の領域に旅行したけれども、ガリラヤの北方境界線上にある、ユダヤ人の大きな人口密集地域に行った、と解しています。
「カナン人」は旧約聖書では、イスラエルと対立している民族です。イザヤ書23章11節によれば、フェニキアとはティルスとシドンを指しており、ここでは「この地に生まれたカナンの女」と述べて、ティルスとシドンの地方出身の女性を「カナンの女」と呼んでいます。
この女性が今イエスに向かって叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と(22節)。「ダビデの子」という称号をイエスに用いたのは、主に(おもに)パレスチナに住むユダヤ人キリスト者です。これに対して、「主(しゅ)」という称号はパレスチナを越えたヘレニズム世界のキリスト者によって用いられました。カナンの女性は二つの称号を一つに合わせていますが、それによってイエスはメシアであるという、ユダヤ人の大多数が否定した信仰を表明しています。イエスは、まずはイスラエルに遣わされたメシアでしたが(24節)、この異邦人の女性はイエスを「主」と呼び、さらに「ダビデの子」と呼び、メシアの慈しみを異邦人の世界にも及ぼしてほしいと懇願します。
第二段落(B):
子どもたちのパン(23−26節)
23節では、一言も答えないイエスに弟子たちが近づいて「この女を追い払ってください」と願います(23節)。この語のもとは「解き放つ・去らせる」を意味し、「病気から解放する」(ルカ13章12節)の意味でも使います。THE NEW JERUSALEM BIBLEはここを「願いをかなえてあげてください」と訳します。だから、この語は「追い返してほしい」の意味にも、「彼女の望みをかなえて、帰してください」の意味にも取ることができます。この段落の強調点がイエスの否定的な態度を示すことにあるなら、後者の解釈が良いかも知れません。
イエスは弟子たちの願いを拒否します。なぜなら、イエスはイスラエルの失われた羊を導く羊飼いとして、神から「遣わされた」からです。イエスは神の救いの計画に忠実に従う僕です。神は救いの力を具体的な出来事を通して現すために、特定の時代と場所と民を必要とされました。すべての人の救いを望む神によって選ばれたのは、弱く小さなイスラエルでした。なぜなら、力ある民ではなく、取るに足らない弱い民に救いが与えられて、彼らの上に神の栄光が輝くなら、異邦人の誰もが神の働きの大きさを悟るに違いないからです。神の救いの計画に従うイエスは、ご利益(ごりやく)としての奇跡は与えません。今はイスラエルに向けて救いが現される段階です。だから、イエスは自らの使命を確認するかのように、「子どもたちのパン」を取ってはならないと、否定の言葉を続けます。
第三段落(A´):
主人の食卓から落ちるパン
(27−28節)
カナンの女性は「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)というイエスの言葉に「主よ、ごもっともです」と同意します(27節)。「子どもたち」はユダヤ人、「犬」は異邦人を指します。ユダヤ人は異邦人を犬と呼びましたが、イエスは軽蔑の意味を避けて、やさしく「小犬」と呼びます。イエスの言葉に同意した彼女は、神の救いの計画に従う信仰を持っています。彼女は「子どもたちのパン」を願うことはしません。「主人の食卓から落ちるパン屑」なら、今、異邦人に与えられても神の救いの計画を損なうことにならないはずです。彼女の機知に溢れた信仰がイエスを動かしました。
今日の福音のまとめ
神の救いがイスラエルに留まらず、異邦人にも向けられることは、旧約時代にも知られていました(イザヤ書56章6−7節)。しかし、それはイスラエルの救いが実現してから起こることとされていました。マタイ福音書では、神の国の宣教はイエスの十字架と復活まではイスラエルに限定されています。それがイエスの復活の後、すべての異邦人へと広げられていきます(28章19節)。
ですから、今日の福音でイエスが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と述べてカナンの女性の願いをいったんは退けたのは、まずはイスラエルが救われ、それを目にした万民が真の神に気づくという神の計画に従っているからです。カナンの女性がただ奇跡を求めたのではなく、神の計画に従う信仰を表したとき、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と応じて、娘をいやします。
2023年8月20日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
本文終盤で「下線+太字」にしている部分は、原文では二重下線ですが、Web上で二重下線にするのは難しいので、下線+太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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