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わたしについて来たい者は、
自分を捨てなさい
―年間第22主日A年
ヨハネ・ボスコ 林 大樹
マタイによる福音
16章21−27節
第一段落:
このときから、必ず起こること、
示し始められた(21節)
マルコ8章31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。
マタイ16章21節「そのとき(直訳 このときから)、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた(直訳 示し始められた)」。
(1)「このときから、
イエスは…始められた」
これと同じ言い回しはマタイ4章17節「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」にも見られます。マタイ4章17節では「天の国にふさわしい悔い改めを宣べ伝える」ことの開始でしたが、21節では「苦しみを受け、殺され、復活する」ことを弟子たちに打ち明けることの開始です。イエスの活動は今日の福音から新たな段階に入ります。
また、マルコ8章31節では「それからイエスは」となっているだけなのに、21節では「このときから」と記して、ペトロの信仰告白(13−20節)を契機にして、イエスの生涯に新しい段階が始まったことを示唆しています。
(2)「必ず起こること」
21節では、イエスが歩む「ことになっている」道が描き出されます。「ことになっている」と訳された言葉は、直訳すれば、「必ずある」のであり、ある出来事が神の意志であるがゆえに「起こることになっている」ことを表します。イエスは、エルサレムへと行かねばなりません。そして、長老、祭司長、律法学者から苦しめられねばならず、しかも殺されねばなりません。しかし、苦しみ、殺されるだけでなく、三日目に復活することも神の意志です。
(3)「示し始められた」
マルコ8章31節では「教え始められた」となっているのに、マタイ16章21節では「打ち明け始められた(直訳 示し始められた)」となっています。「示す」とは「神のひそかな計画を啓示する」という意味です(黙示録1章1節)。
第二段落:
サタン、引き下がれ
(22−23節)
マルコ8章32−34節「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架に背負って、わたしに従いなさい』」。
マタイ16章22−24節「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」。
22節では、マタイは、ペトロがいさめた言葉をそのまま引用します(マルコにはない)。「主よ、とんでもないことです」は、「神があなたを憐れんで(そんなことがあなたに起こらないようにして)くださるように」という意味です。「邪魔をする者」もマルコにはない句で、「あなたはわたしのつまずきの石である」が原意です。イエスは、十字架の道を父のみ旨として受け入れ、そこから離れさせようとする一切のものを「サタン」(マタイ4章10節)とも「つまずきの石」ともみなしています。
次に続く弟子への呼びかけは、マルコでは「群衆」にも向けられているのに、マタイでは弟子たちだけへの勧めとなっています。
第三段落:
自分を捨てるのは
背負うため(24−27節)
24節は三つの命令文(自分を捨てなさい、自分の十字架を背負いなさい、わたしに従いなさい)を使って、弟子の取るべき態度を明らかにします。自分(人間の思い)を捨てるのは、十字架を背負うためであり、イエスに従うためです。これこそ「いのち」への道であり、この「いのち」は全世界よりも価値があります。しかも、この「いのち」の確かさは終わりの日に再臨するイエスによって確認されます。
今日の福音のまとめ
今日の福音の直前で、イエスがメシアであることをペトロが告白したとき、イエスは「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と応じ、ペトロの告白の正しさを認め、彼を祝福しています(17節)。
しかし、「人間の思い」から自由になり切れずにいたペトロが、受難を予告したイエスを脇へ連れて行き、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめると、「あなたはわたしの邪魔をする者」と叱られてしまいます。「邪魔をする者」は文字通りには「つまずき」です。
つまり、人間のありようをすっかり決定する「思い」があります。それは「神のことを思う」か、「人間のことを思う」か、二者択一の形で人間の前に置かれています。神のことを思う者は、自分を捨て十字架を背負いますが、それこそが「いのち」への道なのです。
2023年9月3日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教
※ 注(Web担当者より)
文中で斜字(イタリック)になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。ご容赦を。
原文どおりのレイアウトやフォント切替でご覧になりたい場合は、お手数ですが、Wordファイルをダウンロードしてご覧いただければ有難く存じます。