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言うことを聞き入れたら、
兄弟を得たことになる
―年間第23主日A年

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


 今日の福音の直前のたとえ:
  「迷い出た羊」のたとえ
  (マタイ18章10−14節)


 これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

 ここで「小さな者」と呼ばれる人々は、つまずきの可能性を持つ者(18章6節・10節)、あるいは罪を犯し(15節以下、21節以下)、棄教する(14節)可能性のある人々です。彼らは信者ですが、教会内において倫理的に一段劣ったグループに属する信者であったように思われます。
 イエスは「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と命じます(10節)。すなわち、どれほど弱くどれほど教会から離れてしまっている人々であろうとも、教会の交わりの中にあるメンバーは誰でも、劣ったものとして処遇されてはならないのです。なぜなら、彼らの天使たちが神のみまえに自由に出入りして、自分が守護する地上の人間のために、ただちに必要な処置を願うことができるからです。同時代のユダヤ教では、ほんのわずかな天使たちが「神の御顔を見る」という神の直接的な現臨の場にいることが許されると考えていたので、この言葉が、小さな者に最高度の重要性、それも「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)という結論を確かめられるものとなっています。これらの小さな者が一人も滅びないこと、すなわち、一人も神の国へ入ることが否定されることがないというのが神の思いなのです。
 今日の福音はそれに続く箇所です。それは、罪を犯した兄弟を処分する三段階の手続きを規定したものではなく、むしろその「兄弟を得る」ための真剣な努力を強調したものです。

 今日の福音 第一段落:
  兄弟を得る(15−17節)

 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)。この言葉に続いて今日の福音が語られるのですから、この言葉との関連を15節以下の言葉の中に見ることが大切です。
 15−17節には、条件文と命令文の組み合わせが4回繰り返されます。
 兄弟があなたに対して罪を犯したなら、忠告しなさい聞き入れなければ、連れて行きなさいそれでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 この流れをさえぎるように15節後半には条件文と平叙文の組み合わせが現れます。
 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
 これは、15−17節の忠告の根本精神を表しています。罪を犯した兄弟に対する忠告は「兄弟を得る」ために行われます。今日の福音の直前には、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と述べられています。すべての忠告は「兄弟を得る」ために行われます。なぜなら、それが神の思いだからです。

 今日の福音 第二段落:
  天の父から(18−19節)

 18−19節の「あなたがた」は20節との関連で見ると、「イエスがその真ん中にいる二人あるいは三人」、つまり「教会」を指しています。「あなたがた(教会)」は「地」の上にあって、「天」の父と結びついています。教会が下す判断は天の父の判断を表します。あなたがたのうちの二人が願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。教会の願いは、それが神の思いを表すものである限りにおいて実現します。教会がすべてをつなぎ、解く権威が与えられているのは、その中心にイエスがいるからです。

 今日の福音 第三段落:
  イエスが中心に(20節)

20節は15−19節にかかる理由文です。罪を犯した兄弟への忠告は、兄弟を(神の国のために)得るために行われます。その根本にあるのが20節の主張です。兄弟を神の国のために獲得することは、人間だけの努力によるのではなく、その中心にいるイエスが共に働いています。

 今日の第二朗読;
  互いに愛し合うことのほかは、
  借りがあってはなりません
  (ローマ13章8−10節)

 今日の福音で「忠告する」と訳された動詞は「光の下に連れて行き、光にさらす」の意味ですから、過ちを認めるようにと神の光にさらすことが求められています。そうであれば、罪を犯した兄弟を「神の光にさらす」ことが基本であって、自分の考えに従わせるのではありません。
 神の光にさらされても、神の言葉を説いても、罪を犯した兄弟が聞き入れなければ、どうしたらよいでしょうか。パウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)と教えますが、この言葉にヒントがあると思います。
 この言葉の背景には「神とキリストの愛に正しく応える私たちの愛」を求めており、それが隣人愛という形で表されています。神とキリストの愛に応える道は愛し合うことですが、神とキリストの愛は大きいので、どんなに努力しても、借りが残ってしまいます。
 この愛(ある意味で愛による赦し・忍耐)に目を向けても、それでも罪が消えないときには、キリストの名によって集まり、そこにおられるキリストに助けを求めることになります。
2023年9月10日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 本文序盤で斜字(イタリック)になっている箇所は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、斜字で代用させていただきました。
 また、本文中盤で太字のカギカッコを使っている箇所は、原文では字下げされている部分ですが、スマートフォンなどの狭い画面でも読みやすくなるよう、字下げをやめて太字カギカッコを使用させていただきました。
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