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あなたに言っておく。
七回どころか
七の七十倍までも赦しなさい
― 年間第24主日A年 ―

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   18章21−35節


 〔語句の解釈〕
 ■21節「赦す」。兄弟を赦すことは兄弟を「得る」ことにつながります。「兄弟を得る」ことは先週の福音のテーマです(マタイ18章15−20節)。
 ■21節「七回まで」。ユダヤ教のラビは兄弟を赦す回数を3回までとします。これと比べると、ペトロの言う「7回」は寛容さを示すものですが、赦す回数を問うかぎり、自分の受けた損害を我慢することと捉えており、いつかは我慢できなくなり、罪を犯した兄弟を失います。だから、イエスは無制限に赦すようにと勧めます。
 ■22節「七の七十倍まで」。直訳〔七十七回まで〕。「七十七回まで」と訳すことができるのは、この箇所との関連性が指摘される創世記4章24節のヘブライ語聖書が「七十七」とする数字を、七十人訳聖書がここと同じギリシア語で訳するからです。いずれにせよ、問題とされているのは、厳密な回数ではなく、回数を問う「赦さない心」です。
 なお、創世記4章24節との関連性は数字だけではありません。創世記4章24節のレメクの言葉は、人類にとっての最初の兄弟カインとアベルの物語を踏まえた、際限ない復讐を誓う「赦さない心」を表明しているからです。「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(創世記4章24節)。これに対して、イエスは無制限の赦しを説きます。
 ■24節「一万タラントン借金している家来」。直訳〔一人の一万タラントンの負債者〕。「一万タラントン」の負債は天文学的な数字です。ちなみに、F・ヨセフス「ユダヤ古代誌」によると、紀元前4年にローマの属州であった(ユダヤ国の)ユダヤ州、イドマヤ州、サマリア州から徴収された税の総額が六百タラントン、(ユダヤ国の)ガリラヤ州とペレア州から二百タラントンと記されていることから見ても、一万タラントンがいかに膨大な額であるかが理解できます。一タラントンは六千ドラクメ、つまり六千デナリオンにあたります。一デナリオンは労働者の日給ですから、一万タラントンは六千万日分の賃金になります。
 ここに登場する家来は、国家の重要な任務についている者です。王から領地の一部を任された地方総督であり、その行政区における税徴収の責任を持った人物として想定されているのかも知れません。また、負債額が想像できないほど、巨額なのは、百デナリオンという小額な負債(28節)と対比するための文学的な手法です。
 ■25節「自分も妻も子も、また持ち物を全部売って返済するように」。妻を売却することはユダヤでは禁止されていましたが、子どもたちは家長に残された最後の財産でした。しかし、奴隷の値段はおおよそ五百から一千デナリオンなので、家族を売り払っても負債額にはほど遠いことになります。だから主君は本気で家来に言っていません。
 ■26節「家来はひれ伏し…しきりに願った」。直訳〔そこで伏して 奴隷はひざまずいた〕。ひざまずくのは懇願のしるしです。29節では仲間が同じように「伏して…訴えていた」と述べられていますが、家来は仲間を赦しません。
 ■27節「憐れに思って」。直訳〔深く憐れんで〕。この語「スプランクニゾマイ」は共観福音書だけに12回使われます。たとえ話に使われる二例を除けば、主語はいつもイエスです。
 ■28節「仲間」。直訳〔奴隷仲間〕。この語(シュンドゥーロス)はシュン(一緒に)とドゥーロス(奴隷)の合成語です。文字通りに「奴隷仲間」を表しますが(マタイ24章49節)、ドゥーロスには「大臣・宮廷官吏」の意味もあるので、ここでも王の高官を表すかもしれません。七十人訳ではこの語は高官仲間を指して使われています。なお、パウロはキリスト者仲間をこの語で表しています(コロサイ書1章7節、4章7節)。
 ■34節「牢役人」。直訳〔拷問役たち〕。このたとえに登場する「奴隷」が高官を指す可能性がありますが、ここでもそれが伺われます。というのは、オリエントでの拷問は通常不忠実な地方総督とか、税の引き渡しを怠った地方総督に対して行われたからです。拷問の目的は、彼らが隠した金を捜し出したり、その代償を彼らの親戚や友人たちから脅し取ったりするためです。
 ■35節「一人一人が、…兄弟を」。直訳〔各々 その兄弟を〕。直訳の言い回しは、ヘブライ語では「互いに」を意味します。神の国に属する者とは兄弟として互いに赦し合う者です。
 
 今日の福音のまとめ
 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。今日の福音は「赦し」がテーマですが、32−34節では、王の怒りが描かれています。借金を免じてやった家臣が、その同僚を小額の借金にもかかわらず、牢屋に入れてしまったからです。
 ラビ・アキバにも「王と負債のある家臣」のたとえがあります。その中では、家臣は返済できない負債のために、一年を通して王に真心から仕えます。そして、多くの負債者の中から、彼だけが赦され、地位を失わずにすんだ、という筋になっています。マタイのたとえ話との違いは、王の赦しを得るために家臣は王に心からの奉仕をするのですが、マタイは、神に赦されたゆえに、兄弟姉妹を赦すことを主張するのです。私たちが神から赦しを受けたのは、私たちの善行のゆえにではなく、神の全くの憐れみによります。そして神から受けた赦しを兄弟姉妹に伝えること、これがイエスの説く真の赦しなのです。ですから、「赦す」ことは、回数を数える善行の行為ではなく、自分が神に赦されたゆえに、兄弟姉妹を心から赦すことなのです。「自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか」(シラ書28章4節)。神の怒りは「自分と同じ人間に憐れみの心を持たない」ことを裁くのです。
2023年9月17日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教

※ 注(Web担当者より)
 「語句の解釈」の各段落の冒頭で太字になっている部分は、原文(Wordファイル)ではフォントが明朝からゴシックに変更されている部分ですが、Web上でフォントを使い分けるのは難しいので、太字で代用させていただきました。ご容赦を。
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