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彼らは言うだけで、
実行しない
〜 年間第31主日A年 〜

ヨハネ・ボスコ 林 大樹


  マタイによる福音
   23章1−12節


 マタイ23章の講話と
  山上の説教

 今日の福音では、イエスの話を聞いているのは「群衆と弟子たち」です。ところが、これと並行するマルコ12章38節以下では、その前に「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」(37節)とあることから、教えの聞き手は「群衆」だけであったはずです。
 しかし、マタイがここに「弟子たち」を加えています。「山上の説教」でも、イエスの教えを聞いていたのは「弟子たちと群衆」でした(マタイ5章1節)。このように23章と「山上の説教」の聞き手が同じにされたことは注目すべきことです。
 マタイがこのような場面設定を行ったのは、23章の講話が「山上の説教」(マタイ5章1−12節)の裏返しとなっており、23章を理解するためには、「山上の説教」を思い起こす必要があるからです。今日の福音に続く23章13節以下には「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」が繰り返されます。「山上の説教」は「心の貧しい人々は、幸いである」で始まり、「幸い」という祝福が繰り返されていたのと対照的です。
 23章は、律法学者とファリサイ派への批判ですが、聞き手である群衆と弟子たちは、それを聞かないでよいというのではありません。彼らも同じ危険に陥ることがあるからです。

 モーセの座(1−3節a)
 イエスは、律法学者とファリサイ派の教えを「すべて行い、また守りなさい」と命じます。彼らは「モーセの座」に座り、その教えには権威が与えられているからです。「モーセの座」は会堂(シナゴーグ)に作られた、飾りの付いた石製の椅子です。聖書の巻物を納めた契約の箱に隣接した壇上に、会衆席と向かい合って置かれていました。しかし、彼らは「モーセの座」に座り、権威が与えられていますが、その権威が神から与えられたことを忘れた彼らは、その権威を利用して自分を高く見せようとし、偽善者となっています。
 律法学者は「モーセの座」に座ってその権威によって教えを述べましたが、イエスも「山上の説教」を語るとき、「座って」教えを説きました。弟子たちが従うべき権威は律法学者とファリサイ派のそれではなく、イエスの権威です。彼らはいわば「言うだけで、実行しない」者ですが、イエスは神のみ旨に従い、私たちのために十字架に上ることによって、愛を示しました(イエスは神のみ旨を実行しました)。

 人に見せるために
  (3b−7節)

 律法学者やファリサイ派は掟については雄弁に語りますが、「彼らは言うだけで、実行しない」者たちです。しかしそのような彼らでも「行う」ときがあります。それは「人に見せるため」に何かをするときです。権威の出所を忘れた彼らの目は、当然神には向かわず、人々に向かいます。ただし、人々の苦しみにではなく、人々からの喝采や尊敬に目を向けます。
 彼らは知識を駆使して、人が行うべき振る舞いを細かく規定し、教えます。それはあまりに細かく膨大な数の掟なので、人々にとっては「背負いきれない重荷」(4節)も同然です。しかし、それを自ら担って実行しようとはしないので、その重荷とそこに生じる苦しみには思いが向かわず、人々の苦しみには無関心になります。彼らの興味は自分の学識であって、人々の救いではありません。

 呼ばれてはならない
  (8−11節)

 イエスは、このような偽善者を反面教師として、「あなたたち」の間ではどのように振る舞うべきかを諭します。イエスに従おうとする弟子たちは、人々から「先生(直訳 ラビ)、父、教師(直訳 指導者)」と呼ばれてはなりません。この段落の直訳では「呼ばれてはならない」のほかに「一人」が三度も繰り返されています。「ラビ」とか「父」とか「指導者」とかと呼ばれてはならないのは、「一人」の方がいるからです。その方の前に立つとき、すべての人が等しく「兄弟」とされます。

 自分自身を低くする
  (12節)

 イエスに従う弟子たちのうちでいちばん偉い人は、「仕える者」です。これを言い換えると「自分自身を低くする(へりくだる)者」ということになります。「仕える」のは仲間だけでなく、その根底には「神に仕える」ことがあります。神は、イエスを十字架に送ってすべての人を罪の奴隷から解放しました。自分自身を低くし、へりくだって「仕えた」のはイエスです。真の権威を示した方が、まず、私たちに仕えてくれました。この「一人」に倣うとき、私たちはイエスの本当の「弟子」になり、互いに仕える者になることができるのです。

 今日の福音のまとめ
 イエスは律法学者とファリサイ派が「モーセの座」にあること(2節)、したがって彼らの教えが権威を持つことを承認しています。批判点は彼らの教えそれ自体ではなく、その偽善です。つまり、「彼らは言うだけで、実行しない」、彼ら自身守らぬ厳格な律法遵守の強要、そして彼らに行いがあるとすれば、それは人に見せるためのポーズであるという批判です。
 見せびらかしの例に挙げられた「称号」を鍵として、弟子たちへの警告が持ち込まれます―「あなたがたはラビ、父、指導者などと呼ばれてはならない」(10節)。地位争いが、どこまでマタイ教会内部の問題であったかは想像するしかありません。しかし、この掟が「偉い人は仕える者になりなさい」(11節)というイエスの言葉でさらに一般的動機づけを与えられるとき、その危険が深刻に受け取られていたことが示唆されます。
2023年11月5日(日)
鍛冶ヶ谷教会 主日ミサ 説教